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ゆっくりと日が落ちるように沈んでいくこの場所に
無理矢理縛り付けられて あなたの手を取れない私ですが
それでも
必死にもがいている私と 必死に腕を伸ばしてくれるあなたと
必死にもがいている私と 必死に腕を伸ばしてくれるあなたとを嘲る彼らとは
同じ値段と見られたくなくて
必死に足掻いてはみるのですが
どうやら私の力だけではどうにもならなくて
そんなときに
あなたは光をくれたから
私もそれに応えようと望めたから
ゆっくりと日が落ちるように沈んでいくこの場所に
無理矢理縛り付けられて あなたの手を取れない私です
無理矢理縛り付けられて あなたの手を取れない私ですが
それでも
必死にもがいている私と 必死に腕を伸ばしてくれるあなたと
必死にもがいている私と 必死に腕を伸ばしてくれるあなたとを嘲る彼らとは
同じ値段と見られたくなくて
必死に足掻いてはみるのですが
どうやら私の力だけではどうにもならなくて
そんなときに
あなたは光をくれたから
私もそれに応えようと望めたから
ゆっくりと日が落ちるように沈んでいくこの場所に
無理矢理縛り付けられて あなたの手を取れない私です
馬鹿は死ななくては治らない病だから、死にそうな目に合って少しでも改善されたのなら、
そういう意味ではラッキーかもしれない。
明日の朝、あの男たちは誰一人として五体満足ではいられまい。
(死んだほうがマシだと思うかもしれないけれど、死なせてしまうと面倒だから。俺はお前たちに今以上の時間を費やすなんて無駄はしない。)
そういう意味ではラッキーかもしれない。
明日の朝、あの男たちは誰一人として五体満足ではいられまい。
(死んだほうがマシだと思うかもしれないけれど、死なせてしまうと面倒だから。俺はお前たちに今以上の時間を費やすなんて無駄はしない。)
零距離の温もりよりも
背中合わせの悲しみが大きい
だってこの目の先は別々です
夜を壊しにゆこうと 安易な武器を手に取った
あなたの優しい嘘に感謝をするけど
知っているのです その優しさに囚われて動けないと知っている癖に
紙に書いた約束
は、踏み潰された希望のようで つまりは死んでしまったのでしょう
ああ、あなたとわたしはあまりにもへだてられ
辿り着く事が最良でも最善でもなく けれど 理性の無い愚かさを欲するのです
(超えてはいけないあなたという境界)
背中合わせの悲しみが大きい
だってこの目の先は別々です
夜を壊しにゆこうと 安易な武器を手に取った
あなたの優しい嘘に感謝をするけど
知っているのです その優しさに囚われて動けないと知っている癖に
紙に書いた約束
は、踏み潰された希望のようで つまりは死んでしまったのでしょう
ああ、あなたとわたしはあまりにもへだてられ
辿り着く事が最良でも最善でもなく けれど 理性の無い愚かさを欲するのです
(超えてはいけないあなたという境界)
いい天気だった。空は青く晴れ渡り、なんだかいい感じに白い雲がほわほわとそこかしこに浮いては、時折小さな影を地面に投げかける。風は心地よく穏やかで、世界はまるで平和そのものという顔をしていた。
とてもとても気持ちがいい、普通の日。こんな日は、世間で働く人々には申し訳ないが、己のラッキーさに感謝をしながら、好きな場所でのんびりと寛ぐに限る。そう考えて、わたしは足取りも軽く、猫のように気に入りのカフェを目指して街をふらついていた。
先ほどまで、本当に女かと仲間に呆れられるくらい食事を堪能し、おなかは満足している。そのせいか、ただ歩いているだけなのに、少し眠気に誘われてきた。
だがしかし、もうこの辺のカフェのテラス席で妥協するかな、とわたしが手近な店にダイブしようとしたその時、ふと視界の隅に垣間見えた人影に、わたしは緩んでいた意識を慌ててピンと張り直した 。
見通しのよい公園の植林の、子供の手をひいた母親達のかたまりの更にその向こう。背中をベンチに凭せ掛けて居眠りをしている人物がいた。せっかくの蒼天にも関わらず、影の中にひっそりと身を隠すようにしていて、わたしはもったいないなと少し思った。
ひょいひょいと公園入り口のバイク止めの障害物を飛び越えて、わたしは背後からベンチで寝こけている彼の顔を覗き込んだ。
珍しく熟睡をしているのか、まるで起きる気配がない。彼の人はとても人の気配に敏感で、大抵はこうして近付くだけで、目を覚ましてしまうのに。
「ねぇ、・・・・?」
ベンチの背に上半身を凭れ掛けて、そっと声をかけてみる。それでも反応はまるで返らなくて、彼の膝の上で存在を忘れられた字の小さな難しげな本が、ぱらぱらと風に煽られてページを捲くるばかりだ。
ああなってはもう、何処まで読んだか分からなくなってしまう。わたしはそう考えてから、いや、と小さく首を振った。彼はとても頭がいいから、きっと何処まで読んだかなんて、理解の度合いで判断できるに違いない。さすがだ。すごい。格好良い。
勝手に想像し、勝手に結論付け、勝手に感心し、深く頷く。わたしの目から見る彼は、まさに出来る大人の見本のようなもので、いつか自分もそんなふうになれるかな、とちょっと憧れたりもしている。
そんなわたしにまるで気付かず、彼は眠っている。ふわふわと墨色の髪が風に揺れるのを見て、触りたいな、と思った。真っ黒で、細くて、柔らかそうで、自分のものとはまるで違う。だがきっと触れれば彼は目を覚ますだろう。それはなんだかもったいなくて、わたしは伸ばしかけた手を渋々引き戻した。
(あ、くちびるが少し荒れてるけど肌きれい)
彼は、男性なのに肌の色や眼の色素が薄い。羨ましいとは思わないが、素直にきれいだと思う。
(でもきれいだなんて言っても、きっと彼は喜ばない)
さも呆れたという顔をして、寝言は寝て言えよ、と鼻先をきつく摘まれるのが関の山だろう。実際わたしも、彼をきれいだとは思うものの、それは美しい女性を前にして賞賛する為に紡ぐそれとは、何となく違う気がしていた。
女のきれいは、もっと強いものだ。男を魅惑する為の、命の熱を感じるような激しさを秘めている。当たり前だが、彼にはそれがない。
それにわたしは、別に彼を美男子だとか考えているわけでもない。
彼のきれいは、どちらかと言えば自然に通じる。例えば、空がすごく青いなぁとか、新緑が眩しいなぁとか、そういったもっと曖昧なきれいさ。
多分これをあの人や友人達に言ったら、やっぱり笑われるのだろう。悔しいから、言う気はない。
「 」
少しだけ声を大きくする。彼は起きない。わたしは身を起こすと、ひょいと身体を跳ね上げて、彼の正面に回り込んだ。隣に膝を突き、先ほどよりも近い距離で顔を覗き込む。
(ほんとに起きない……)
少し嬉しくなってきて、わたしは一人でにんまりと笑った。無防備な姿を見せてもらえるほど、信頼されている事実が嬉しかった。もしかするとこれはものすごく偶々で、彼は今回例外中の例外ってくらいに疲れていて、下手をすれば次なんてないかもしれないけれど。
それでも今は、許されている。
ただそれだけで、跳ね回りたいくらい、嬉しい。
薄く開いた唇から、すぅすぅと規則正しい寝息が零れる。時折ぴくりと睫毛が震えるから、何か夢を見ているのかもしれない。穏やかな寝顔はどうにも幼く見えて、その安らかな眠りをずっと眺めていたくなる。
またほんの少し、触りたいな、と思った。
髪とか、頬とか、耳とか。彼は不必要な接触を嫌うところがあるから、例え後ろから飛びつくことを許してはくれても、顔の周囲に触れることは許してくれない。一体過去何度、何気ない仕草でひょいと避けられてしまったことか。
(触りたいとか、変かな)
興味本位に、触れたいと思う。触ったらどんな感触かなと、本当にただそれだけの興味。だのに、時々それがすごく強くて、自分でも不思議になる。
(私は彼が、好きなのかな?)
尊敬はしてる。憧れてもいる。構ってもらえると嬉しいし、確かに好きなんだろう。だがちょっとこれとそれとは、違う気もする。
なんだか胸の奥がもやもやして、わたしは私のトレードマークの髪の毛の先を、指先でピンと弾いた。それは首の後ろにすとんと落ちて、わたしの視界は一息に明るくなった。だのに、気持ちは晴れないままで。
「・・・起きてよ」
さっきまでは寝ていて欲しいと思っていたはずなのに、今はもう逆の気持ちになっていた。このまま彼が寝ていると、胸のもやもやが大きくなる。もやもやが大きくなるのは困る。
「ねぇ」
だってもやもやは、自分の知らない感情を、どこからか運んできてしまうから。
わたしの指先が、ゆっくりと彼に近付いた。呼吸を確認するように、少しずつ、彼の口元へと寄せる。
吐息が、触れた。それはわたしが思っていたよりもずっと熱くて、少し濡れていて、何故だか不必要なまでに緊張していたわたしを驚かせるには十分だった。反射のようにわたしは手を己の胸元まで引っ込めると、彼の吐息を感じた指先を見つめた。頬がかぁっと熱くなった。
彼は、まだ眠っている。
広い公園の片隅。人気のないここは、周囲の喧騒も遠くて。
ぎし、と手を突いたベンチが、鳴った気がした。
擦れ違う人たちの視線にかまう余裕もなく、わたしは全速力で公園を駆け抜けると、ずいぶん前に飛び込もうとしたカフェのその横の路地に一息に飛び込んだ。何処でもいいから、とにかく誰もいなくて静かなところに行きたかった。
顔が熱い。目の前がくらくらして、心臓が爆発しそうだ。
自分で自分を理解できなくて、わたしは行き止まりの路地の壁際まで到達するや否や、その場に膝を抱えてしゃがみこんだ。
「正気か、私……!」
胸を苦しめるこれは、罪悪感だろうか、それとも。
まるで生まれて初めて盗みを働いた気分だ。後ろめたさと、僅かな怯えと、否定しようのない興奮に眩暈がする。全速力で走ったときのように鼓動は早鐘を打ち、陽気を言い訳にしても不自然なほど、わたしは汗をかいていた。
「なんでよ……ッ!」
触れる気なんて。
なかったはず。
だったのに。
だってあなたはとてもきれいで。
彼女はまるで雲のようだ、とわたしは思った。
掴み所がなく、ふわふわと気ままで、少し優しい感じがして、だけど内側には激しい雷雨を孕んでいる。うん、実によく似ている、と自分の発想に満足して、わたしはにんまりと笑った。
今も彼女は、ソファに腰掛け、するすると器用な手付きで林檎を剥いている。真っ赤な皮はその内側にほんの少しだけ白い果肉をまとって、くるくると渦を巻きながら彼女の膝に敷かれた紙の上に大人しく収まる。そしてソファの足元には彼がいて、頭を彼女の腿の辺りに凭せ掛けたまま、食べやすい大きさに切り取られた林檎を当然とばかりに優雅にかじっている。だがそれは、この部屋では別段珍しくもない、当たり前の光景だ。
わたしは床に仰向けに寝転がって、それを眺めていた。視界が逆さまだから、彼女と彼も逆さまだ。逆さまの世界で、逆さまの二人が、逆さまに笑う。それがなんだかとても楽しい。
それから、彼女が雲なら、彼は空かな、と考える。強い根拠はない。ただ、一色に塗り潰されたようでいて、さりげなく含まれたまるで異なった色合いだとか、昼と夜の二面性だとか、一言でこれだとは断言できない酷く曖昧な部分で似ているような気がする。
どんどん楽しくなってきて、わたしは身を起こすと、今度はくるりと首を回してキッチンにたつ友人を見た。
彼は山だ。見た目のイメージそのまんまだ。重厚でどっしりとして、揺ぎ無い安定感がある。
それから・・・と考えて、ふと翳った視界にわたしは首を巡らした。目の前には、蜜を浮かべた林檎。思わずぱくりとかじりついてから、それを支えていた指先が彼のものであったことに気付いた。ざくざくと咀嚼し、味わって飲み込む。口内に広がった甘酸っぱさに、溢れた唾液を慌てて腕で擦った。彼が頭上で、くすりと笑う。
「何きょろきょろしてんだ」
「んー、貴方は空だなとか、彼女は雲だなとか、そんなん考えてた」
「あ?……個人のイメージって意味かよ?」
「そう難しくは考えてないよ。何となくそんな感じだなって思ったの。それだけ」
彼の陰に隠れてしまった彼女を、わたしは体を斜めにすることでひょいと眺めた。
彼女は先ほどまで使っていたナイフを片付け、林檎を皮ごと丸のままにかじっている。つまり皮を剥いたのは、彼だけの為であったということだ。わたしはぎゅっと眉をしかめると、横に立つ彼を見上げて口を開いた。
「ねー」
「何だよ」
「貴方にとって、彼女は何になる?」
「は?」
「何でもいいよ。てきとーに答えてよ」
少し言葉の端が辛辣な色を含んだ気がして、わたしは誤魔化すように頭を掻いた。胸がもやもやする。彼女も、彼も、何か変だ。すごく仲が良くて、信頼しあってて、でも全然寄り掛かるような重さは見えなくて。その癖今みたいにさも当然の顔をして、彼女は彼を甘やかす。やっぱり変だ。でも何が変なのかは分からない。
だがしばらく待ってみても答えは返らなかった。いい加減痺れも切らそうかと、そのくらいは我慢してから、わたしは再度口を開こうとし。
「これ、かね」
ふわ、と手を揺らした彼に、口を半開きにしたまま一瞬固まった。
「……これ?」
彼の真似をして、手を軽く振ってみる。だが無論そこには何もなく、意味を把握しかねてわたしは首を傾げた。
「そう。それ」
小さく頷き、それから彼はくしゃりとわたしの頭を掻き混ぜた。飲み込みの悪い子供を励ますような仕草に、わたしは思わず口を尖らせる。だがそれこそが正しく子供そのもので、彼はくつくつと肩を揺らして笑いながら、また彼女の方へと戻って行った。何事もなかったように、彼女の座るソファの足元に、元通り腰を落ち着ける。
(これ、ねぇ)
ひらひらと手を振ってみたところで、そこには何もない。あるのは、自分の手だけだ。だが、彼が彼女を「手みたいだ」と表現したとは到底思えず、わたしは首を傾げ、もう一度視線を二人へと向け。
(……!)
する、と彼のうなじを撫でた彼女の指先に、ドキリと心臓を跳ね上げた。
―――優しい、仕草だった。
もしかすると自分は、彼と彼女の関係について、ひどい思い違いをしているのではないかと、そう疑ってしまうほどに。
……二人は親友で、相棒で。切っても切れぬ仲であると、周囲の誰もが知っている。しかしそこには、色恋はないと聞いていた。もはや色恋など、あの二人には不要なのだと実しやかに言われていることも。
思わずわたしは目を逸らし、再度己の手を見遣る。何もない。何もないけれど……ふと思い当たった事柄に、わたしは体をびくりと震わせた。……何もないようにしか見えないほどに、あって当たり前のものがそこには在った。
(……え)
どくどくと、体を巡る血が騒ぐ。今閃いた回答は、多分正解で。そしてとても怖いものだと、わたしは思った。
彼女と彼へと向けた幾度目かの視線。もう二人は触れ合うこともなく、小さな声で会話をしているだけだった。彼女が何かを言い、彼が笑い、彼の返す答えに、彼女が笑った。
余りにも自然で。
その自然さ故に、わたしは手のひらを握ると、それをぎゅっと胸に押し当てた。
この手のひらの上に在ったのは、空気。
世界を覆う、ともすれば無尽蔵の。
日々当たり前のように吸い込み、吐き出し。
この、体を生かしている。
ふと、わたしは泣きたくなって、目を閉じた。
自分が泣きたくなる必要など何処にもない。
それが分かっていてなお熱くなる目頭に、わたしは微かに首を振った。
(バカじゃないの。)
あんなに簡単そうに笑って。
分かっているのか、いないのか。
(目に見えなくて。在って当たり前の、それは)
―――なくなれば、死んで、しまうのに。
掴み所がなく、ふわふわと気ままで、少し優しい感じがして、だけど内側には激しい雷雨を孕んでいる。うん、実によく似ている、と自分の発想に満足して、わたしはにんまりと笑った。
今も彼女は、ソファに腰掛け、するすると器用な手付きで林檎を剥いている。真っ赤な皮はその内側にほんの少しだけ白い果肉をまとって、くるくると渦を巻きながら彼女の膝に敷かれた紙の上に大人しく収まる。そしてソファの足元には彼がいて、頭を彼女の腿の辺りに凭せ掛けたまま、食べやすい大きさに切り取られた林檎を当然とばかりに優雅にかじっている。だがそれは、この部屋では別段珍しくもない、当たり前の光景だ。
わたしは床に仰向けに寝転がって、それを眺めていた。視界が逆さまだから、彼女と彼も逆さまだ。逆さまの世界で、逆さまの二人が、逆さまに笑う。それがなんだかとても楽しい。
それから、彼女が雲なら、彼は空かな、と考える。強い根拠はない。ただ、一色に塗り潰されたようでいて、さりげなく含まれたまるで異なった色合いだとか、昼と夜の二面性だとか、一言でこれだとは断言できない酷く曖昧な部分で似ているような気がする。
どんどん楽しくなってきて、わたしは身を起こすと、今度はくるりと首を回してキッチンにたつ友人を見た。
彼は山だ。見た目のイメージそのまんまだ。重厚でどっしりとして、揺ぎ無い安定感がある。
それから・・・と考えて、ふと翳った視界にわたしは首を巡らした。目の前には、蜜を浮かべた林檎。思わずぱくりとかじりついてから、それを支えていた指先が彼のものであったことに気付いた。ざくざくと咀嚼し、味わって飲み込む。口内に広がった甘酸っぱさに、溢れた唾液を慌てて腕で擦った。彼が頭上で、くすりと笑う。
「何きょろきょろしてんだ」
「んー、貴方は空だなとか、彼女は雲だなとか、そんなん考えてた」
「あ?……個人のイメージって意味かよ?」
「そう難しくは考えてないよ。何となくそんな感じだなって思ったの。それだけ」
彼の陰に隠れてしまった彼女を、わたしは体を斜めにすることでひょいと眺めた。
彼女は先ほどまで使っていたナイフを片付け、林檎を皮ごと丸のままにかじっている。つまり皮を剥いたのは、彼だけの為であったということだ。わたしはぎゅっと眉をしかめると、横に立つ彼を見上げて口を開いた。
「ねー」
「何だよ」
「貴方にとって、彼女は何になる?」
「は?」
「何でもいいよ。てきとーに答えてよ」
少し言葉の端が辛辣な色を含んだ気がして、わたしは誤魔化すように頭を掻いた。胸がもやもやする。彼女も、彼も、何か変だ。すごく仲が良くて、信頼しあってて、でも全然寄り掛かるような重さは見えなくて。その癖今みたいにさも当然の顔をして、彼女は彼を甘やかす。やっぱり変だ。でも何が変なのかは分からない。
だがしばらく待ってみても答えは返らなかった。いい加減痺れも切らそうかと、そのくらいは我慢してから、わたしは再度口を開こうとし。
「これ、かね」
ふわ、と手を揺らした彼に、口を半開きにしたまま一瞬固まった。
「……これ?」
彼の真似をして、手を軽く振ってみる。だが無論そこには何もなく、意味を把握しかねてわたしは首を傾げた。
「そう。それ」
小さく頷き、それから彼はくしゃりとわたしの頭を掻き混ぜた。飲み込みの悪い子供を励ますような仕草に、わたしは思わず口を尖らせる。だがそれこそが正しく子供そのもので、彼はくつくつと肩を揺らして笑いながら、また彼女の方へと戻って行った。何事もなかったように、彼女の座るソファの足元に、元通り腰を落ち着ける。
(これ、ねぇ)
ひらひらと手を振ってみたところで、そこには何もない。あるのは、自分の手だけだ。だが、彼が彼女を「手みたいだ」と表現したとは到底思えず、わたしは首を傾げ、もう一度視線を二人へと向け。
(……!)
する、と彼のうなじを撫でた彼女の指先に、ドキリと心臓を跳ね上げた。
―――優しい、仕草だった。
もしかすると自分は、彼と彼女の関係について、ひどい思い違いをしているのではないかと、そう疑ってしまうほどに。
……二人は親友で、相棒で。切っても切れぬ仲であると、周囲の誰もが知っている。しかしそこには、色恋はないと聞いていた。もはや色恋など、あの二人には不要なのだと実しやかに言われていることも。
思わずわたしは目を逸らし、再度己の手を見遣る。何もない。何もないけれど……ふと思い当たった事柄に、わたしは体をびくりと震わせた。……何もないようにしか見えないほどに、あって当たり前のものがそこには在った。
(……え)
どくどくと、体を巡る血が騒ぐ。今閃いた回答は、多分正解で。そしてとても怖いものだと、わたしは思った。
彼女と彼へと向けた幾度目かの視線。もう二人は触れ合うこともなく、小さな声で会話をしているだけだった。彼女が何かを言い、彼が笑い、彼の返す答えに、彼女が笑った。
余りにも自然で。
その自然さ故に、わたしは手のひらを握ると、それをぎゅっと胸に押し当てた。
この手のひらの上に在ったのは、空気。
世界を覆う、ともすれば無尽蔵の。
日々当たり前のように吸い込み、吐き出し。
この、体を生かしている。
ふと、わたしは泣きたくなって、目を閉じた。
自分が泣きたくなる必要など何処にもない。
それが分かっていてなお熱くなる目頭に、わたしは微かに首を振った。
(バカじゃないの。)
あんなに簡単そうに笑って。
分かっているのか、いないのか。
(目に見えなくて。在って当たり前の、それは)
―――なくなれば、死んで、しまうのに。
自分に向けられた、対抗心をまるで隠そうとしない真剣な眼差しに、私は己の口角がつい人の悪い風に歪むのが分かった。
若いなァ、と思う。十年も昔は自分もこんなもんだったかなとふと考えるが、少なく見積もってももう二割……いや五割は歪んだ根性をしていたような気がする。
今隣に立って、二人のやり取りを呆れ交じりの眼差しで見詰めている彼に尋ねれば、きっとわざとらしいほど盛大に溜息を吐き、「そんなに謙遜しなくて もいいよ」と返して来ることだろう。皮肉に片眉を上げたその表情が目に浮かぶようで、私は口元に浮かべた笑みを更に深めた。
自分が笑われたのだと誤解したのか、彼女が眦をきつくする。素直で可愛らしい反応だ。だがこの素直さが、多分どうしようもなく頑なな彼を癒すのだ。
彼は認めようとはしないが、彼の汚水だらけの社会に住む大人にあるまじきストイックな姿勢は、少女達の劣情を刺激するある種独特の魅力がある。それは慌 てた顔を見てみたいといったごく軽度のものから、自分の前で乱れさせてみたいという女性特有の母性という形の征服欲にいたるまで、人により様々だ。だが少 なくとも目の前の少女は、彼を外側から眺めただけではない、もっと人の中核をなす、謂わば本質のようなものを目聡く見抜き、その上で惚れたんだろうなと思 う。
それを彼も分かっている。分かっているから、どうしても甘くなるのだろう、この子供に。
(……だが、まだまだ可愛いもんよねぇ)
私は、自分が彼にとって特別な存在であることを自覚している。自惚れているつもりはない。実際、彼は私のやることなすこと、結局は全てを赦す。口では何かとうるさく、嗜めるようなことを言ってもだ。
だから、こんな子供のライバル宣言に自分が本気になるはずもなく、こうして対抗心丸出しの目で睨みつけられたところで、焦りさえ感じることはないのだ。 過ごした時間の長さと関係の密度は決してイコールではないけれど、だからと言って築き上げた長年の信頼は、そう易々と揺らぐものでもない。彼と私は実際の ところ、少女が考えているような色恋を交えた付き合いではないが、時折互いの間に流れる濃密な空気は、ただの色恋などよりよっぽど得難いもので あろう。故に、彼女は焦りを隠せない。
彼にとって今の少女は、妹以外の何物でもない。悠然と構える成犬に向かい、小さな手足で地面に踏ん張り必死で牙を剥いている幼い仔犬も同じだ。尤もこればかりは、スタート地点が大きく違うのだから致し方のないことなのだが。
せめてもっと年が近ければ、少しは違ったのかもしれないけどな。そんな憐憫にも似た情が、ほんの少し私の胸を過ぎる。
しかし。
「行こうか、約束の時間に遅れるわ」
「え?ああ、そうだな」
少女を憐れむ気持ちはあれど、だからと言ってそうそう手を抜いてやるつもりはない。彼は私の恋人ではない。恋人ではないが、かけがえのない存在であるということに変わりはないのだ。「ください」「はいどうぞ」でくれてやるなどもっての外だ。
私が彼を顎で促すのに、彼は素直に頷いた。それを当然として受け入れているからだ。だが彼女にしてみれば、二人の間に流れるこの空気こそが最も気に入らないのだろう。
咄嗟に彼のシャツの裾を握ろうとした手が、途中で握り拳になって戻されるのを、私は目敏く視界の端に捉えた。仕事に向かう『大人』に縋るなんて『ガキ』のすることだ。そんな子供なりの自尊心が、少女の行動を縛っている。
本当に可愛いもんだ。私は思った。あとほんのもう少しでも大人になれば、子供であるということさえも武器に出来るというのに。その術さえも知らないとは、実年齢よりも更に少女の精神は純粋で幼く、私からしてみればいっそあどけないほどだ。
「……っ!」
苛立ちがそのまま声になったような鋭さで、少女が彼を呼んだ。振り返るのは私よりも、彼のほうが一瞬早かった。甘やかしているとよく分かる。だが少女にとって、それは残酷な子供扱いに他ならない。
これでもし彼が先に「どうしたんだ」などと聞いてしまえば、さすがの少女も傷付くだろう。いくらなんでもそれは哀れで、私は彼を指先で軽く制して、少女に向き直った。
「なあに?」
睨み付けてくる目は、ぎらぎらと輝いていた。いい眼だ。遠慮も何もない、純粋無垢な眼だった。私は思う。自分の欲しい物に対して、人間はやっぱりこうでなくちゃいけない。
隣で彼が、口を出すべきかどうか悩んでいる。今目前で繰り広げられているこの状況が、よもやまさか自分を賭けた争いの宣戦布告であるだなんて、彼の頭にはきっと欠片もないだろう。私は笑い出しそうになりながら彼女の言葉を待った。
「……三年で!」
少女が指を突き出す。何事か、と眉を上げれば、今にも噛み付きそうな顔で少女が宣言した。
「三年で、私は貴女を越えてみせるから!」
今はまだこの身が、頼りないと自覚している。
経験も知識も、全ての状況において貴女に及ばない。
だが、それでも。
すぐに追いつく。追いついてみせる。
―――そして必ず、その余裕の笑みをぶち壊して見せるから!
そんな声が聞こえるようで、私はひどく楽しくなってしまった。
くく、と喉の奥が鳴った。直後、耐え切れずにとうとう吹き出す。
少女の頬が怒りの余り真っ赤に染め上がるのを、私は容赦なく笑い飛ばした。
「ああ、そうね。楽しみにしてるわ。……ただし」
ぴたり、と笑うのをやめて、私は彼女を見下ろした。立場の違いを思い知らせるような、傲慢な視線で。
「時間ってのはね、誰にでも平等に流れるって事、忘れてないでよ」
そう簡単に追いつけるなんて、思わない方が身の為なの。
はっきりと言い捨て、私は今度こそ少女に背を向けると、もう振り返ることはしなかった。彼が少し少女を心配そうに見ていたのは知っていたが、今彼に気遣いなどされれば、少女のなけなしの女のプライドは、それこそ木っ端微塵に砕け散るだろう。
私も甘い女ねぇ、などと私は内心うそぶいて、とりあえずは三年後、いや二年後を楽しみにしようとほくそ笑んだ。
若いなァ、と思う。十年も昔は自分もこんなもんだったかなとふと考えるが、少なく見積もってももう二割……いや五割は歪んだ根性をしていたような気がする。
今隣に立って、二人のやり取りを呆れ交じりの眼差しで見詰めている彼に尋ねれば、きっとわざとらしいほど盛大に溜息を吐き、「そんなに謙遜しなくて もいいよ」と返して来ることだろう。皮肉に片眉を上げたその表情が目に浮かぶようで、私は口元に浮かべた笑みを更に深めた。
自分が笑われたのだと誤解したのか、彼女が眦をきつくする。素直で可愛らしい反応だ。だがこの素直さが、多分どうしようもなく頑なな彼を癒すのだ。
彼は認めようとはしないが、彼の汚水だらけの社会に住む大人にあるまじきストイックな姿勢は、少女達の劣情を刺激するある種独特の魅力がある。それは慌 てた顔を見てみたいといったごく軽度のものから、自分の前で乱れさせてみたいという女性特有の母性という形の征服欲にいたるまで、人により様々だ。だが少 なくとも目の前の少女は、彼を外側から眺めただけではない、もっと人の中核をなす、謂わば本質のようなものを目聡く見抜き、その上で惚れたんだろうなと思 う。
それを彼も分かっている。分かっているから、どうしても甘くなるのだろう、この子供に。
(……だが、まだまだ可愛いもんよねぇ)
私は、自分が彼にとって特別な存在であることを自覚している。自惚れているつもりはない。実際、彼は私のやることなすこと、結局は全てを赦す。口では何かとうるさく、嗜めるようなことを言ってもだ。
だから、こんな子供のライバル宣言に自分が本気になるはずもなく、こうして対抗心丸出しの目で睨みつけられたところで、焦りさえ感じることはないのだ。 過ごした時間の長さと関係の密度は決してイコールではないけれど、だからと言って築き上げた長年の信頼は、そう易々と揺らぐものでもない。彼と私は実際の ところ、少女が考えているような色恋を交えた付き合いではないが、時折互いの間に流れる濃密な空気は、ただの色恋などよりよっぽど得難いもので あろう。故に、彼女は焦りを隠せない。
彼にとって今の少女は、妹以外の何物でもない。悠然と構える成犬に向かい、小さな手足で地面に踏ん張り必死で牙を剥いている幼い仔犬も同じだ。尤もこればかりは、スタート地点が大きく違うのだから致し方のないことなのだが。
せめてもっと年が近ければ、少しは違ったのかもしれないけどな。そんな憐憫にも似た情が、ほんの少し私の胸を過ぎる。
しかし。
「行こうか、約束の時間に遅れるわ」
「え?ああ、そうだな」
少女を憐れむ気持ちはあれど、だからと言ってそうそう手を抜いてやるつもりはない。彼は私の恋人ではない。恋人ではないが、かけがえのない存在であるということに変わりはないのだ。「ください」「はいどうぞ」でくれてやるなどもっての外だ。
私が彼を顎で促すのに、彼は素直に頷いた。それを当然として受け入れているからだ。だが彼女にしてみれば、二人の間に流れるこの空気こそが最も気に入らないのだろう。
咄嗟に彼のシャツの裾を握ろうとした手が、途中で握り拳になって戻されるのを、私は目敏く視界の端に捉えた。仕事に向かう『大人』に縋るなんて『ガキ』のすることだ。そんな子供なりの自尊心が、少女の行動を縛っている。
本当に可愛いもんだ。私は思った。あとほんのもう少しでも大人になれば、子供であるということさえも武器に出来るというのに。その術さえも知らないとは、実年齢よりも更に少女の精神は純粋で幼く、私からしてみればいっそあどけないほどだ。
「……っ!」
苛立ちがそのまま声になったような鋭さで、少女が彼を呼んだ。振り返るのは私よりも、彼のほうが一瞬早かった。甘やかしているとよく分かる。だが少女にとって、それは残酷な子供扱いに他ならない。
これでもし彼が先に「どうしたんだ」などと聞いてしまえば、さすがの少女も傷付くだろう。いくらなんでもそれは哀れで、私は彼を指先で軽く制して、少女に向き直った。
「なあに?」
睨み付けてくる目は、ぎらぎらと輝いていた。いい眼だ。遠慮も何もない、純粋無垢な眼だった。私は思う。自分の欲しい物に対して、人間はやっぱりこうでなくちゃいけない。
隣で彼が、口を出すべきかどうか悩んでいる。今目前で繰り広げられているこの状況が、よもやまさか自分を賭けた争いの宣戦布告であるだなんて、彼の頭にはきっと欠片もないだろう。私は笑い出しそうになりながら彼女の言葉を待った。
「……三年で!」
少女が指を突き出す。何事か、と眉を上げれば、今にも噛み付きそうな顔で少女が宣言した。
「三年で、私は貴女を越えてみせるから!」
今はまだこの身が、頼りないと自覚している。
経験も知識も、全ての状況において貴女に及ばない。
だが、それでも。
すぐに追いつく。追いついてみせる。
―――そして必ず、その余裕の笑みをぶち壊して見せるから!
そんな声が聞こえるようで、私はひどく楽しくなってしまった。
くく、と喉の奥が鳴った。直後、耐え切れずにとうとう吹き出す。
少女の頬が怒りの余り真っ赤に染め上がるのを、私は容赦なく笑い飛ばした。
「ああ、そうね。楽しみにしてるわ。……ただし」
ぴたり、と笑うのをやめて、私は彼女を見下ろした。立場の違いを思い知らせるような、傲慢な視線で。
「時間ってのはね、誰にでも平等に流れるって事、忘れてないでよ」
そう簡単に追いつけるなんて、思わない方が身の為なの。
はっきりと言い捨て、私は今度こそ少女に背を向けると、もう振り返ることはしなかった。彼が少し少女を心配そうに見ていたのは知っていたが、今彼に気遣いなどされれば、少女のなけなしの女のプライドは、それこそ木っ端微塵に砕け散るだろう。
私も甘い女ねぇ、などと私は内心うそぶいて、とりあえずは三年後、いや二年後を楽しみにしようとほくそ笑んだ。