雨が降っていた。
 音のするような激しいものではなく、霧のように静かな雨だった。俺は土手の上に立ち、海を割りながら進む船の行く手を、ぼんやりと眺めていた。
 周囲に人影はなかった。絶え間なく波飛沫の音が鼓膜を打っているにも拘らず、慢性的な騒音はいつしか意識から遮断される。そして残るのは、ぞっとするような静寂だ。
 雨だというのに、俺の手に傘はなかった。代わりとばかりに、右手には煙草を挟んでいた。火の点いていないそれは、水気を含んで色を変えてしまっている。 口に銜えようものなら水に溶け出したニコチンが毒素となって身を蝕むだろうが、元より俺に喫煙の習慣はなく、むしろ慣れぬ物を手にした時の不釣合い感ばか りが際立っていた。
 左手は、ズボンのポケットに無造作に突っ込まれたままだった。はみ出した小指から、時折細かな雨が雫となって滴り落ちる。水分が余すところなく周囲を浮遊し、まとわりつくようだと思った。

 煙草を吸っていたのは、彼女だった。

 臭いのきついジッポのライターが気に入りで、時折癖のように蓋を指先で弾いていた。整った手の細い指先が、随分と器用に動くものだと、内心こっそり感心したことを覚えている。
 だが今になって思えば、何をさせても彼女は器用にこなしたように思う。下っ端の頃から、会社においては仕事にかかわる何事をも上手く扱っていたし、偶に 過ごす彼女の家では料理や裁縫まで手際の良さを披露していた。器用貧乏であった感が否めなくもないが、少なくとも俺は、素直にそれをすごいと思っていた。
 反面彼女と比較して、俺は余りに不器用だった。仕事に関することはともかく、日常生活を送るという意味において、俺にはセンスというものがことごとく欠落していた。それも幼い頃から。
 そんな俺にとって、食事とは動く為に必要なエネルギーを吸収する行為でしかなく、衣類に意識を向けるなど時間の無駄でしかなかった。彼女はそんな俺の生 活を嘆いては、両手で耳を塞ぎたくなるほど口を出し、そして時には存分に手を出した。俺が好む味付けを網羅し、体型に似合った服を選んでは半ば無理やり押 し付けた。
 結局のところ、彼女の無償の努力の甲斐なく、俺が意欲的に衣食住にこだわるようにはならなかった。けれどそれでも、俺は彼女の選んだ料理を残すことはしなかったし、渡された衣類は比較的好んでよく着ていた。
 文字通り小鳥ほどの食事しか取らなかった少年期の俺は、こうして半ば彼女によって育てられたようなものだった。
 だがそれもハタチぐらいまでのことで、いつという明確な区切りこそなかったが、気付けば彼女は表立って俺の世話を焼くことをやめていた。
 それがいわゆる大人になったからだったのか、それとも俺がそれなりにまともに生活出来るようになったと判断されたからだったのかは分からない。もしかす るともっと別の理由があったのかもしれないが、それを知る術はすでになく、俺に出来ることはといえば、こうして益体もない想像を膨らませる程度でしかな かった。
 それでも時折、彼女は昼食中の俺に歩み寄っては、ごく自然な所作でもって、料理のプレートを一枚追加したりしていた。俺の留守のうちに、部屋のデスクの上に新しい服や小物が無造作に置かれていたこともあった。
 彼女の意図はよく分からなかったが、俺は余り気にしていなかった。否、意識さえしていなかった。それが俺にとって、余りに当たり前であったからだ。

 故に今、俺はひどく途方に暮れている。

 彼女は幼馴染であり、遊び仲間であり。少し気恥ずかしい言い方をすれば、親友であった。己の一部であった。
 失われて初めて気付いたわけではない。そんなことは、とっくの昔に知っていた。ただ呆れ返ることに、全く考えもしなかったのだ。彼女を先んじて失う日が来る可能性を。
 彼女が死ぬときは、自分も死ぬのだろうと、漠然と思っていた。同じ道を歩んできて、ほとんどの想い出の中でともに在ったから。だから俺は、彼女が死ぬような状況において、自分独りが生き残るというパターンはないと、頭から否定していたのだ。何の根拠ひとつもなく。

 それがどうだ。
 実際のところ、彼女は俺がまるで知らないうちに死んでしまった。己の一部とさえ思っていた存在が失われたのに、俺はまるで気付けなかった。
 彼女の命の火が消えたとき、俺はともすれば、仲間たちと楽しく笑い合っていたかもしれない。ウトウトとのん気に日向で舟を漕いでいたかもしれない。実際 のところなど、分かるはずもなかった。俺が彼女の死を知ったのは、彼女の体温がまるで消え失せ、石のように冷たくなってなお、余りあるほどの時間が経って からだったのだから。

 俺は煙草を挟んだままの右手を正面へと伸ばした。広大な海を高速で進む船は、一度船から落ちたものを顧みることはないだろう。
 遮るもののない静けさの中、俺は指先からゆっくりと力を抜いた。軽い煙草はあっという間に風に浚われ、目も眩むような遥か下、黒い海面へと吸い込まれるように消えていった。
 それから左手をポケットから引き出すと、そちらもまた同様に正面へと伸ばす。その指先には、彼女が愛用したジッポが握られていた。
 丁寧に磨かれた銀のジッポは、独特のくすんだ色合いをしていた。その滑らかなボディーを細かな雨が濡らしていく。この色に似合う指先は自分のそれではないと俺は思い、先ほどの煙草の後を追わせるように拳を開こうとして。

 それが出来ない現実に、瞑目した。

 身にまとわりつくような雨はやまず、水は俺の身体を重く重く押し包んでいく。
 それはやがて透明な幕となり、俺を取り囲んで隙間なく閉じ込めてしまう。
 息苦しくて、俺は己が手で口元を覆い。
 触れた銀の冷たい感触に、唇を震わせた。

 何処までも陰鬱な沈黙の中、ジッポに零れた一滴の雨が、ゆっくりと表面を滑って落ちた。
彼は間違いなく彼女のものだった。
そう言葉にすると語弊があるけれど、それでも多分、他に表現のしようがないくらいには、彼は彼女のものだった。
そして彼女は、きっと彼のものだったのだ。
雨の中立ち竦む背中はひどく遠くて、数十歩の距離が何マイルにも感じられた。

でも本当は、もっと遠かった。何十マイルよりも、何百マイルよりも、何千マイルよりも、ずっと。

それは、生と死の距離だった。




 彼女が死んだ。
人が突然いなくなることは、日常ではないけれど、それでも然程珍しいことでもなくて。だけどやっぱり、特別だったんだ。
彼女は、素敵な人だった。明るくて、楽しくて、ちょっと気紛れで怒ると怖くて。弟しかいなかったわたしにとって、彼女は年の離れた姉そのものだった。大好きだった。
だから、彼女が死んで悲しいとか、腹立たしいとか、許せないとか。わたしは荒れ狂う波に翻弄されるみたいに感情的になって、その衝動のままに激昂し、嘆いて、色々なものを吐き出した。
溜め込むのは良くない。腹の中がドス黒くなって、残念ながら精神的にキャパの小さいわたしは、簡単にパンクしてしまう。
だから吐き出すのは自衛本能で、つまりそれは、仕方がないってヤツなんだ。
わたしは取り乱すだけ取り乱しながら、それでも根っこのところに僅かに残った冷静な部分で、彼を見ていた。
 あの時。
静かに、静かに。怖いくらいに静かに、死んだ彼女に触れた彼は、泣きもせず、震えもせず、ただ一言、呟いた。
聞こえたような、気がした。でも音になっていたかと言えば、分からない。
彼の唇が、言葉を模ったことだけはよく覚えているのに。
その言葉が何だったのか、わたしはまるで思い出せないでいる。

 彼女の部屋には色々なものが残ってて、だけどもう彼女はいなくて、故にその部屋は今、誰のものでもなくなってしまった。
読み掛けの本も、放り投げられたままのジャケットも、床の隅に置かれたハイヒールの靴も、全部全部何もかも。もう、誰のものでもない。
主のいない部屋はひどく息苦しかった。
わたしは机の端に置き忘れられた煙草を見つけて、それを一本だけ抜き取った。彼女はたまに煙草を吸った。
ヘビースモーカーではなかったけれど、それでも煙を燻らせるその姿が様になる程度には頻繁に。
何度かそこらに置かれていたライターだったりマッチだったりで火を点けてやろうとしたら、粋じゃない、と窘められた。そしていつだって、懐からいい具合に磨かれた渋いシルバーのジッポを取り出して、徐に火を点けるのだ。
格好良いな、と思ったから、素直にそう口にした。そしたら、にやりと笑われた。
だけど煙草の煙はひどく苦くて、わたしは彼女が煙草を吸うたびに、彼女の傍から逃げ出した。
指に挟んだ煙草を銜え、火を点ける。思いっきり吸い込んだら、ひどくむせた。苦いし、不味いし、舌を刺すような刺激がある。
これの何が良くて、彼女は煙草を吸っていたのだろう。よく分からなかった。
それでも吸いさしの煙草を捨てる気にはなれなくて、最後まで灰にした。
最後の二・三口はむせずに済んだけれど、わたしがこれを習慣にすることはないだろうなと思った。

舌はじんと痺れたままで、唾液が少し、粘ついた。

 外は雨だった。
 静かで、重い雨だった。
 空は当たり前だけど雲で覆われて、まるで世界には何の希望も残されていないみたいだった。
 視線の先には彼がいて、びしょ濡れのまま、それでも真っ直ぐに立っていた。
 遠い背中だった。
 一歩ずつ近付けば、確かに距離は縮まるのに、恐ろしく遠い背中だった。

「     」
わたしは空気を滑らせずに小さく名前を呼んで、いかないでと切に願った。
貴方まで失ったら、わたしはきっと正気を失う。それは嫌だからいかないでと、そう願った。

だけど彼は微動だにしなくて、わたしは怖くて怖くて仕方がなくて。


手を伸ばして、縋り付いた。
肩は冷え切って、その冷たさは張り詰めた氷だった。ほんの少しの衝撃で割れて壊れる、そう思った。
背筋がぞくりとする。彼の白くなった左手は、何かをきつく握り締めていた。
わたしは彼を抱いたまま、子供みたいに何度も何度も、いかないで、と繰り返した。
おかしな話だった。誰が止めようともこの街を出て、ケジメを付けに行くと決めたのは、他でもないわたしなのに。
泣いているかと思った彼は、泣いていなかった。泣いているのは、またわたしだった。
「・・、・・・・」
 途切れながらも名を呼び、ぎゅうぎゅうとその身体を抱き締めて、雨で濡れて肌に張り付いたシャツの上から、体温を探すように彼の身体を弄った。冷たい身体は人形のようで悲しくて、わたしは彼にキスをした。
そこで彼は、初めてぴくりと反応をした。

だけどその目はまるでわたしを見てはいなくて。
わたしの後ろの誰かを見るような、そんな遠い眼差しで。応えの無い名前をよんで。
そして彼は、わたしにキスをした。

 煙草の味のする苦いキス。

舌を絡めて、唾液を混ぜ合って。
息苦しくなるほど深くキスをしたのに、頭の芯は何処までも冷え切っていた。

彼は間違いなく彼女のものだった。そして彼女は、きっと彼のものだった。
だけど彼女はもういなくって、彼女の部屋だったあの場所は、もう誰のものでもない。

 それじゃあ彼女のものだった彼の心は、今一体何処にあるんだろう。

「ねぇ、ねぇ、ねぇ」
いかないで、と縋り付いた。
わたしは、行くけど。
どうかお願いだからいかないで。

 彼の頬は濡れていた。
 雨なのか涙なのか、わたしにはまるで分からなかった。





たいがいにして起こらなくていい時に起こる


(俺だけなのか、そうなのか!)


家人は俺以外はもう既に寝静まっている。廊下の明かりも最低限に落とされていた。

それにしても暗い。

家を出てもそれは変わらなかった。
不自然に思えて何気なく空を仰ぐ。

 月がない事に気がついた。

 分厚い雲が銀色の光を覆い隠してしまっている。
 その事を、少し惜しいと思った。

あの光が、嫌いではない。

闇を淡く照らす銀色は酷薄だが時にひどく優しい。
何者をも突き放すようでいて、何者をも包み込むようでもある。
子供のような自己顕示欲に相反する凍えた無欲。
その身に矛盾を抱きながら尚、我が物顔で夜を彩る姿は寂しげでさえあるのだ。

 知らず口元が笑んでいて、ふと我に返った。



今、月に誰かの姿を重ねていなかったか。
迫りくる危険も理解している。

そしてそれを受け入れている自分をもまた、理解してしまっているのだ。

額から流れ落ちる汗は、そのまま命ごと連れ去ってしまいそうで、それでも拭う気はない。

からからに乾いてくる喉は呼吸すら途切れさせて、

もう吐いているのか吸っているのかすら分からなくなってきた。



けれどその喉で、これだけは言わせて貰おう。
 思い出したのは狐の面だ。笑っているようで無表情にも似る、目を細めた、引き攣りの表情。

 じっと見ていたから、視線に気付いたのか、改めて上げられたおもては、矢張り、狐の顔。
 笑っているのかと訊ねたら、いいえ、と彼は短く否定して、それきり口をきかなかった。外見の印象から外れる事もなく寡黙なようだが顔に揺蕩うのは何かを誤魔化すように柔らかく、そして冷たい表情。ああ眼が笑っていない所為だとやがて気が付いた。曖昧な表情に感情の読めぬ眼。

狐を、思い出す。

 気付けばどうでもよくなった。表情や気配に違和を感じれば警戒し突き詰めるのが性分だが、

その原因が分かれば、相応しい対応も自ずと分かる、だからどうでもよい。




(首筋を撫でるうなじの産毛が毛羽立つような感覚に気付く前の話)
遠いから

自分と遠くて、全然違う存在って、気楽に好きって言えて

違う生き物を愛でるのは簡単だと思う

何の責任も、拘泥も無い

好き、かもしれない

もし俺が死んだら、信じてくれるか



随分悲観的な言葉に
珍しいとは思ったが
いつ死んでもおかしくない生き方をしていた



お前も
(無論俺も)



けれども信じていた

白く輝くように側にいた
それが当たり前のように笑い
侵食するような優しさで触れた


生ぬるい思想ばかりを振りかざして
子供のような無邪気さでここへ入り込んだのは紛れもなくお前で


ああこれが永久になど、莫迦らしくて考えたくもなかったけれど


それでもそんなことを思いつくほどに病んでいた

お前のせいだ



それなのに









ああ









まぶしい。


まぶしくて目が痛いのだ


(そうだこれは、そのせいの涙)





お前が消えたとてなんの障害にもならない


(もとどおり、今までと同じに戻るだけ)


戻る、だけ



それだけのはず、 なのに










(ああ、全能なる神と呼ばれる方々) 




(許されるのならば)









この白き刃に命を

熱き血潮に口付けを、



このかよわき生き物にもう一度の熱を













誰でもいい






























































初めて、信仰せぬ数多の神へ祈った。





下らない

視力の落ちた左目だけでなく

健全な右目すらイカれて

元から足りない頭まで


この恋の前に支える膝すら笑っている