こんばんは〜

最近ふと思うことがありますので現時点での備忘録として。

 

 

自分はたまにですが音楽大学で一生懸命に音楽を教えています、専門的な難しい曲にどんどん取り組んでもらって、楽曲分析やスタイルなどをよりトラディショナルに、より良い形に演奏できるように教えています。

 

 

しかし、タイトルの通り、音楽大学で取り組むような専門的な曲、サックスだと例えばイベール、グラズノフ、アルルの女、古城などは、99%の人が卒業後に演奏する機会はありません。

これらを吹ける人は日本だけでも100人以上は既に軽くいます。プロオーケストラの数に対してとっくに需要は足りています(というかそもそもそんなに需要もない)

 

この事実を見た時に、これって数学でいう「微分・積分」にすごく似ているなと感じました。

数学で習う微分積分、これは社会に出てから使わないよと言われます。(俺は習った記憶はない)そういった類の勉強に似ています。

 

数学者になるのであれば学ぶべきは勿論ですが、数学の授業を受けている全員が数学者を目指す必要もありません。

 

演奏家を目指すといっても、段階が大きくあると思います。

国際的に活躍するような孤高なソリストを目指す人と、そうではなく演奏家活動をしてただ沢山の人を喜ばせる職に就きたい人と、分けることができます。

分けてもいいと思います。それくらい多様性のある時代です。

 

よってたどり着いた結論としては、

「音大生にイベールやグラズノフ等の名曲を学ぶ必要はない」ということです。

 

それよりも誰もが知っていてウケる曲「ルパン・コナン・A列車・宝島」をかっこよく吹けるようにするべきと思います。

 

それに数学者として立派な功績を残さなくても、難しい問題を解けなくても学校の先生はできます。学校の先生を目指すのであれば、フェルリングやドビュッシーが吹けなくても全く問題ありません。

 

音楽を学ぶ上で、先生と一緒に名曲に取り組み、伝統を継承し、本当に深い音楽の感動や体験を共有する、みたいな。そういうの、もう古いと思いました。

宗教じみている音楽伝承の形のおそれもあると思います。

 

ではたとえば渾身のイベールをYoutubeに載せて誰がその動画を見ますか?

またそのイベールはどれだけのクリエイティヴが詰まっていますか?

 

それよりも、ルパンをかっちょよく吹けて、ショート動画に載せて、演奏会に足を運ばないライトユーザーとの接点が増えて、そこから少しでもファンが増えて演奏活動がしやすくなる方が大切なんじゃないかと思いました。

かっこいいルパンを載せた方が、喜んでくれる人は圧倒的に多いです。

 

イベールがうまく吹けないと演奏家になれないのでは、、、と諦めるよりも、宝島のソロを書き譜通りでよいのでかっちょよく吹ける方が、結果として沢山の人が応援してくれて、自信も持てて演奏家としての道が開けるのではないでしょうか?

 

演奏家になりたいのであれば、日本で活動するならばウケの良いポップス曲を徹底して練習して、かっこよく吹けるようにするべきです。

 

クラシックコースは譜面の読み方やアンサンブル、指導方法を学ぶのに適しています。

アドリブはジャズコースにて学ぶのが良いでしょう。

 

試験で頑張って良い成績を残して学校で一番になってもコンクールには関係ありませんし、サックスだったらもはや今の時代、えげつない現代曲を軽々吹けるレベルでないとステージにあがる機会もありません。

これはガラパゴス化してきている今の日本の音楽大学のレベルではかなり難しくなっていると思います。他のアジア圏の学生の取り組みとは大きく違ってきているとみています。

サックス全体のレベルが上がる中、日本はステイしてます。GDPと同じ現象を感じます。

 

全員の生徒に、全員の演奏家志望にそれを課すのは無意味であるし、相当なメンタルが必要になるので、そういうのはそれを求める人にだけで良いでしょう。

 

と考えると、大多数の音大生には、カルテットでジブリやディズニーを演奏できるスキル、書き譜のソロやメロディをかっちょよく吹ける技術が必要なわけです。

それらを徹底して教え込むことで、音大生は演奏家としての道を諦めずにフリーランスとして活躍することができるんです。

 

なので、サックス中心の文ではありますが、イベールやグラズノフ、ボノーのカプリスを吹ける必要は全くないですし、バッハ、ブラームス、ベートーベンの勉強をする必要も全くありません。

 

音大生活を仲間とともに楽しく過ごし、無茶なものはやらずに、そして卒業後は楽器が人よりできることを武器に、みんなの知ってる曲を演奏してファンを増やしていく活動が大事です。

 

自分たちの世代やその上の世代が体験してきた辛く苦しい経験みたいなものは人生にとって必ず必要なものではありませんし、そういう経験が人を成長させると思っていては、人類の知恵も先には進みません。

例えば、戦争の曲でも人を殺める曲でも、演奏家としてそういう体験が必要なわけではなく、大切なのは想像力です。

苦しい体験も想像できれば、身をもって体験する必要もありません。

 

自分たちが受けてきた教育を今の世代にそのまま伝えていることに違和感を感じておりましたが、スッキリしました!!

 

きっと「いやそんなことはない、そういった結果よりも過程が大事なんだと、できるできないではなくて一生懸命に音楽に取り組む姿勢で得た学びが必要なんだ」という意見もあるでしょう。ではそういった挫折の経験がその人の人生に必要なのかということです。

99%の人が卒業後に、せっかく学んだ素敵な曲を演奏する機会がないんです。

 

現場で必要なのはグラズノフの知識ではありません。

指導者ならば、指導のスキル、面倒見の良さ。

演奏家ならば、キャッチーなMC、良い見た目。

音楽職人ならば、楽譜通りに柔軟に演奏できる技術。

ソリストならば、圧倒的な技術と圧倒的な音楽性です。

 

それからもう一つ。

では音楽大学のレッスンと、街のレッスン教室のレッスンの違いはなんですか?と。

この内容に差を自分には殆ど感じることができません。

 

差が必要なのかと考えていましたが、別に同じで良いのではと思うようになりました。

 

音楽を楽しみたい人と音楽の道を志す人とは違う、とかでしょうか、そんなの先生同じなら場所関係ないと思いますね。

 

よって「音楽を学ぶならエチュードをやって、少しずつ名曲に取り組んでいき、大きな試験ではチャレンジをして、演奏家や指導者になるならないにかかわらず、どんな職になっても音楽の良さを人に伝えられる人間になっていかないといけないよ」みたいな、、

自分たちがそうしてきたからそれをあなたの世代にも受け継ぎますよ、みたいな、、

 

そういうビジネスモデルももうオワコンかなって思います。一部では続くと思うけど、オワコンになっていいと思う。

 

今の時代に合ってない。

今の時代の学生たちの求める演奏家像にも合ってない。

 

しかし、それだけではあまりにも音楽の発展に偏りがあると思うので、来年度からの自分のクラスには大きな特徴をつけたいと思います。

・スケール長調短調全部できる人のみ

・ソリストを目指す人のみ

・年間で何かしらの挑戦をして結果を残すこと、残せなかったら破門もしくは留年

とします。

 

自分が教えられるのはそれしかないんです。

 

洗足の試験でも、今まで暗黙の了解で出してきた留年手前の点数以上の審査を変えたいと思います。基準に達しないと思った生徒にはガンガン赤点をつけたく思っています(その場合は他の先生の採点との平均点で上回ることを祈ってください。)(これは止められると思いますがやってみます)さらに言うと、いつも言いますが教えるのはあまり得意ではないのです。

 

あいにく自分は学校でも個人でもレッスンの機会は殆どないので、レッスンが生活の糧ではありませんので、必要以上の生徒を教えないようにしたいと思いますし、生徒ゼロでも全く生活に困りません。生活はどのみち日々ふつうに困ってますw

皆様ご存知のように洗足には沢山の先生がいるので、自分が特段クセ強くなっても問題ないと思います。とうことでその強く方向性を打ち出していきたいとおもいます。

 

こうして書きましたが、これは多くの先生方を否定してるってことじゃなくて、人それぞれ、何を教えるのが大切かとか考えていると思うので。

ただ自分はこう思うし、こう思って教えるという方向です。これも多様性と思います。

 

その上で、今の音大生がもっと演奏を楽しめる環境を作れたらいいなと考えます。

では(p‘・ω・〝q)