私はJW一世ですが、二世の方達の気持ちがまだ分かる方で、一世だけど二世のような部分もあります。
一世の方が何でJWの教えを信じてしまったのか、きっかけもそうだし、その後もずっと信じきって離れないのも不思議です。
私は自分自身に問うこともあるのです。何でJWになってしまったのかって。
人からもそう思われてるだろうなとも思うのです。
最近、ある方のブログを読んでて、ああ、私はこれだなって思いました。
『自分の意見が言えない』
押さえつけられて、のびのび育って無いっていう背景もあるのかもしれませんが、
何分、自分に自信が無いので言えないというのもあります。
今、JW二世問題がメディアに出てくるようになって、被害の声をたくさん聞くようになりました。
私は現役のころ、二世さん達は私よりのびのび育っていたかのように思えていたので、ここまで被害が大きいのかとびっくりしています。
だけど、被害受けた二世さんと自分と重ねられる部分もあり、
うちはカトリックだったのですが、私は何で教会に毎週2回以上行かないといけないのか、嫌で仕方無かったのですよね。
ちゃんとミサに通えてる子供たちもいる中、私は何でか行けなくて、ミサ内でやらなきゃいけないこともあったけどとにかく行けなくて、
行けない自分を責めてました。
何て言うか、成功体験が無いのですよね。
嫌な事を強いられて、出来なくて、自分を責める、ばっかりして、自分にただただ自信が無くなる経験ばかりするっていう感じでしょうか。
そしたら、自分の意見が言えなくなってくるのですよね。
バプテスマ受ける時、本当は嫌だったのだけど、説得されて受けたのです。
「今ハルマゲドンが来たら滅びるよ」なんて脅されて。
滅びても良かったのです。別に。
生きる事に喜びなんて別に無かったのです。
そして神すら信じてもなかった。
自分がそんな気持ちなのに、何で証言は出来たのか。
そりや、これでもかって訓練されるし、どういう結果になるのかとか聞かされたり、褒められたり、
世の人からされる質問もどうかとも思うんですが、
教理について質問もされたら、そりゃ教理は答えれます。
そしたら、世の人は(この人はああもう信じちゃってるんだ)って思うんですよね。
もっと本人を助けたい気持ちがあったなら、別の質問が出来たのでは無かったのでしょうか。
それはさておき、元々、自分はどうなのかって考える事が出来なかった。
そこへ、周りからは『このこは神を信じてる子』って見られたら、
自分もそうなのかなって思ってしまう。
だけど、違うような。でも、自分を表現出来ない。
そんな感じがストレスに繋がっていったのだと思います。
結局、その程度の信仰のバプテスマが、
排斥の話をする時は、全てを分かった上でのバプテスマを受けたかのような扱いで裁かれてしまいます。
理不尽ですよね。
人の感情はずっと最初からそっちのけで、とにかく協会が求めておられる事をただ働き蜂のように働かされて、本当、それだけって感じ。
本当に人を助けようとは思っていない。
本人自身を見ようとはしない宗教だと思います。
私は、カトリック時代、神を信じきれもしなかったみんなにも合わせられなかった過去があるのに、何でまた似たような人生を選んでしまったのだろうって、
世間の人は楽しく過ごせたであろう、10代20代を私は、こんな風に生きてしまった。
それでも私の場合は一世なので、周りからは自分の意思で入って、自分の意思で辞めたと思われています。
自分がどう思うのかが大事なんだろうけど、世間から見た自分の印象と違いすぎて、何から話したら良いのやらで言葉がつまるのです。