映画『ノルウェイの森』を観ました。

私は若いころ村上春樹がとても好きでした。
『ノルウェイ』 を特別に好きだったわけではないけれど、
それでも思い入れのある作家の作品なので、映画が楽しみでした。
興味がありました。


さて結論から言うと、
これは「映画化」ではなくて「映像化」だ、と思います。


もとよりあの小説のすべてを、たった2時間の映画にできるわけなどなく、
しかしかと言って、
映画は映画として、小説から独立して完結しているのか?
と問われればそういうわけでもありません。


だから監督が、『ノルウェイの森』という美しい小説を読んで、
自分の好きなシーンだけを選んで映像にして、
それをつなげて流しています、というような作品に思えました。


たとえば『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』は、
漫画は漫画、映画は映画、として、
原作と違う点や、削られたエピソードがあってなお、
十分に楽しめる素晴らしい作品になっていたと思います。

映画版で発せられたメッセージは、
漫画版のメッセージをすべて引き継いではいませんが、
どちらもそれぞれに胸に訴えかける力を持っています。


しかし、『ノルウェイの森』はそうではなく、
観客が映画を観る前に原作を知っているということが条件となり、
そうでなければ展開の意味がまったくわからない、
消化不良の物語になってしまうと思うのです。

監督があの小説を、
「イタイ若者が出てきてセックスをしたり自殺したりするだけの物語」
と解釈して映画をつくったのだとしたらそれは大成功しています。


原作の小説の中でもワタナベ君は、映画と同様に多くの女性と寝ます。
永沢さんと一緒になって、不特定多数の女性と遊ぶ場面も出てきます。
けれどそれらと、直子、緑、レイコさん3人との性交はまったく異質のものであり、
どうしてその行為が “必要” だったのか、
丁寧に丁寧に描写がなされています。

映画の中でそのような描写が行われていたとは思えません。
映画の流れとしてはなんの必然性もなく、
「ただ原作でそうしたから」、彼らは寝るのです。

少なくとも私はそう感じました。


そしてセックスのシーンが、やたらに大きな比重を占めており、
作品全体のバランスがとても悪いように思います。
あの原作を読んで、どうしてこのバランスになったのか不思議でなりません。

登場人物たちのバックグラウンドや、交わしたたくさんの会話や心理描写、
それらがあってこその性行為であるのにも関わらず、
映画だけを観ていると何もわからず、ただ彼らはやりまくっています。


ワタナベ君がどうして直子を放っておけなかったのか。
ワタナベ君と直子の2人が負った、キズキ君による傷跡の大きさが、
あの映画の中に描かれていたでしょうか・・・。

なんだかそういういちいちが、
「小説の設定を共有しているのが大前提」、と構えているようで、
映画を製作する側の怠慢に感じます。


そもそも、映画の直子の魅力のなさには愕然とします。

あの女優さんは演技力が凄い!という絶賛レビューも多く目にしましたが、
“原作のある作品” を映画化するにあたって、
果たして必要なのは演技力だけでしょうか。

映画の中の直子は、
原作のような、今にも壊れそうな20歳になりたての美少女などではまるでなく、
「精神を病んでる演技が上手い」、と言えば聞こえは良いものの、
とにかく気持ち悪くて、めんどくさい女のようにしか見えませんでした。
だから、どうしてワタナベ君が直子にこだわるのかがスンナリ理解できないのです。

直子役の女優さんは原作の大ファンで、
みずからオーディションを受けこの役を勝ち取ったようですが、
本当に原作の大ファンなら、
自分と直子のキャラの違いを自覚して欲しかったです。

女優という職業をしていて、大好きな作品が映画化される、
その状況で、どうしても出演したい、と思う気持ちはわからないでもありません。
挑戦したくなるのは仕方ないのかもしれません。

でも年齢や、骨格や、その他もろもろ、
どうしようもないものもあるのだし、
そのどうしようもないもの、を、演技力で補おうとするあまり、
なんだかやたらに恐ろしい直子になっていたように感じました。


そしてまた一方、緑はというと、
ワタナベ君はなぜ緑に惹かれたのか、
唐突に「愛してる」という言葉が出たけれど、
一人の女性を愛するに至るほどのやり取りが、映画には出てきません。
むしろそんなことをいきなり言うワタナベ君が軽薄にすら感じられます。

逆になぜ緑はワタナベ君にかまうのか、それも不明なままでした。

ワタナベ君と緑の。
あの火事も、キスも、キウリも。全部大切なエピソードなのに。

映画にはどれも出てきませんでした。

緑のあの突拍子のなさが、
ただ性格が悪くて他人を振り回しているのか、
彼女独特のユーモアなのか、
原作では当たり前のように読者にはわかるのに、
映画だと判断材料が少なすぎて、微妙なところでした。
あんなに魅力のある女の子だと言うのに、残念でなりません。


ただ救いは、緑役の女優さんが非常に私のイメージと合っていたことです。

可愛くて、生命力と透明感にあふれていて、
画面に出てきただけで目が離せなくなるような女の子でした。

台詞が棒読みで早口でしたが、
あれはあれで良いように思います。


出典は定かではないのですが、
この作品の映画化にあたって村上氏から、
会話は小説のままで、というような注文があったそうです。つまり、文語のままで。

【追記・訂正】
 上記、台詞に関する提案は村上氏からではなく、
 主演・ワタナベ君役の俳優さんからのものだったようです。

あの “村上春樹調” を実際の言葉として発するためには、
多少の棒読みぐらいが丁度良いと私は思います。


ほんとうに可愛い緑でした。


さて、思い入れのある作品なので、感じたことも山ほどあります。
全て書いたらあんまり長すぎるのでいくつかは割愛するとしても、
この映画化にあたって監督の行った取捨択一、
つまり、全部は盛り込めないから、どれを取ってどれを捨てるか、
の基準がまったく理解できない!!!
そのことだけは書かずにはいられません。

直子、緑に関しては前述の通りですが、
他にも、

あれじゃあ永沢さんはただの嫌な自信家で知的さなんて全然感じないし、
ハツミは、男を見る目がない自分を棚に上げてヒステリックになってるみたいだし、
突撃隊なんて、どうして出したのかわからないし、
なんと言ってもレイコさんの扱いの酷さと言ったらもう・・・

もう・・・

でした。


尺を理由に、これらを描き切ることが出来ないというのなら、
セックスのシーンに時間を取られ過ぎでしょう、というのがまず第一に言いたいことだし、
それから、いっそ登場人物を削ってしまう方が逆に良かったのではないか、
というのが第二です。
そして映画としての『ノルウェイの森』を再構築すればいいのです。
もちろんその責任を引き受けることが、簡単であるはずはないけれども。


とにかく以上の理由から、
これは「映画化」ではなくて、「映像化」に過ぎないと私は思います。

ただ特筆すべきは、映像化は映像化でも、素晴らしく美しい映像化だったのであって、
そこは評価されて然るべきです。
草原や風や光や水や、空気までもが、完全に美しいのです。

美しいと言えば音楽もそうでした。
いかんせん音量が大きすぎる、と感じる場面もありましたが。

どうしてあんなボリュームにしたんだろう。
まったく同じタイミングで同じ音楽を使って、
音量さえ抑え目にしてくれたらパーフェクトだったのに。

まぁそれも、私の個人的な好みですけど。

だいたい映画のレビューなんて、ごく個人的なものなので、
私はプロの評論家でもなんでもないし、
個人的ついでに最後にワタナベ君について書いて、終わりたいと思います。


えーと、ワタナベ君、
ちょうちょうちょうよかったです。

この役者を私は知りませんが、
(というか映画に出てきた役者、糸井重里しかわかりませんでした。)

ワタナベ君は、私の中の、
「村上春樹の作品の主人公ってこんな感じ」、
というイメージに100%合致していました。
100%です。

あの話し方、声、間の取り方、笑い方、うつむき方。全部。

実写版のワタナベ君に出会えただけでも、
この映画に行った価値がありました。
自分のイメージのまんまだったのです。
こんな人間がほんとにいるんだー!と感動したのです。

おかげで(おかげで?)、
ここまで酷評に近いことを書いておいてなんですが、
わざわざ翌日に思い直してもう一度映画館に赴き、パンフレットを購入したぐらいです。
ワタナベ君に出会えた記念に。

ははは。


欲を言えばあのワタナベ君とあの緑に、
「春の熊」のやり取りをして欲しかったです。
淡々と。静かなトーンで繰り出される、
ワタナベ君特有のばかばかしくて愛らしいユーモア。

あれが聞きたい。
もう、それだけ。




「私のヘアスタイル好き?」

「すごく良いよ」

「どれくらい良い?」

「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」



「どれくらい好き?」

「春の熊くらい好きだよ」

「それ何よ、春の熊って?」

「春の野原を君がひとりで歩いているとね、
向こうからビロードみたいな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。
そして君にこう言うんだよ。
『こんにちは、お嬢さん、僕と一緒にころがりっこしませんか?』って言うんだ。

そして君と子熊で抱き合ってクローバーの繁った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。
そういうのって素敵だろ?」

「すごく素敵」

「そのくらい君のこと好きだ」