エッセイやインタビュー、期間限定で登場したウェブサイト以外では、かなり久しぶりに村上春樹を読みました。1Q84は未読なので、海辺のカフカ以来の長編小説でしょうか。
私は村上春樹が好きです。
でもそれは、新作が発売された!早速買おう!というような熱心なものではなく、図書館でたまたま誰からも借りられていなかったり、仲の良い友達が「これ良かったよ」と貸してくれたり、“縁”があれば読む、という感じです。そのわりに、読んだら読んだでいつも夢中になっていました。
で、結局本日、多崎つくるを読み終えたので、1Q84以外は全作品読んでいるようです。(今ネットで村上春樹作品一覧というのをチェックしてみた)
今回の作品は、激しく心を揺さぶられたり、読んだ後に元気が出たり、ガラリと人生観が変わる、といった内容ではありませんでした。
でも、自身が主人公と同じ年齢だというせいもあるのか、これまでの人生を振り返って、「そういえば・・・」と考えるきっかけを与えてくれる作品でした。
引っかかる文章の中に何かを探そうとしながら、自身の過去をさまよったり、反芻したりしました。それは私にとって興味深く、実は必要な時間だったのかも、と思えました。
彼の文体は独特に気障なので、アンチもたくさんいます。
ファンである私自身も、読んでいて、ああ、この人のこういう言い回しが、ある種の人々から「けっ!」って思われるんだろうなあ、と感じる箇所がかなりあります。気のききすぎた比喩や、普段耳にしないような横文字の羅列。
でも私が思うのは、世の中には、特に気負ったり、お洒落ぶったりしているわけじゃなく、実際にこんなふうにバスローブを羽織ってウィスキーをくゆらせている人種もいて、だからそんなことでいちいちイラっとしてたら、村上春樹の良さが味わえなくてもったいないのに、ということです。
まあそういう描写が生理的に受け付けないとか、どうしても鼻についてしまうのは仕方ないんだろうけど。
私は幸い、時に厨二をこじらせてしまったような主人公の独白に、読み途中の本を放り投げる程の拒絶反応は示さないので、今回もじっくり、村上ワールドを堪能することができました。
彼の作品は、私にとってクラシック音楽に少し近いです。
それは、感情移入のしやすいポップスと違って、聴く側にもある程度の準備が必要だという点においてです。
ポップスが例えば、失恋して泣いてるとか、君に会いたくて苦しいだとか、がんじがらめの世の中にうんざりだとか、直接的でわかりやすく、初めて聞いた人間でもすぐに、あるあるある、わかるわかる!そうそうそう!という具合に自分を重ねて、スッと受け入れられるのに対して、クラシックは一見(一聴?)退屈で、冗長で、難解ですらあります。
けれど腰をすえて味わおうとすればするほど、いろんなものが見えてくるし、その美しさを堪能することができます。
こんな気取った会話、現実世界で聞いたことないよ!っていう澄ましたやり取りの中に、村上春樹が彼自身の深い部分まで降りていって全力で紡いだ想いが込められているとしたら、「いやいや。普通、私達は、こういう風には話さないからw」というだけの理由でそれを笑ってしまうのは本当にもったいない。
サーッと上辺だけ目を滑らせて、物語の起承転結だけを追って、え?なにこれ?(ポイッ)って、わかろうとしないのは本当にもったいない。
解決されないままの謎や、最後まで正体のわからなかった登場人物、そこにモヤっとしてしまうのも理解できるけれど、村上春樹の醍醐味は、そういうゴールを目指すことじゃないのかも、と私は思います。だからゴールらしいゴールは求めません。
私にとって彼は、そんな、貴重な読書体験をさせてくれる、数少ない好きな作家のひとりです。
まあ同じようなことを、伊坂幸太郎とか辻仁成あたりがやっていたら、私もきっと「けっ!」ってなるんだろうけど。ははは。要はただ、やっぱり好きなのです。村上ワールドが。
