東京都目黒区立第四中学校 「68年間、全同窓生のために」我が母校の閉校から。 | Yasushi Norinao 「則直泰」のブログ

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写真家として、作家活動をしている一人です。

私の考える事の多くは、
「物事の基本、始まり。原点を常にそこから始まる目で見つめる。」を大切にし、
日々、その場所からの視点で見つめています。
       



「目黒区立第四中学校の同じ卒業生と在籍していました方全員に贈ります」


私は1972年(昭和47年)3月に卒業しました者です。

2015年1月20日の学校の様子。すっかりご無沙汰の方、遠方で来れなくなった方は懐かしいですね。

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「DVDにまとめた四中の光景」の一部より。只今こちらの画質は落としてあるために荒れて見える事があります。

四中同窓生のみなさまはじめまして。

創立年が昭和22年ですから、その年を1期生として数えると私の入学年が1969年の4月、つまり昭和47年である事で間違いが無ければ23期生となります。

同じ四中の同窓と言うだけで、とても親近感が湧く、そんな思いを実際に感じられた閉校式からの思いの私です。こうして初めての方でも関われる歓びを感じております。 どうぞよろしくお願い致します。 今日はとても大切な事がありまして公表する形で呼びかけたく存じます。



今年(2015年)の3月に四中が長い歴史を閉じ、閉校した事ですべての四中生に向けて「思い」への映像メッセージを届けたい思いの一心で閉校年度から計画して関わって来たものがあります。

すべての世代を越えた「四中の思い」を一つにした象徴となる形をつくるもので、まさに全四中生が共有して思いに心を寄せ合える心のイメージ映像作品なのです。


いつまでも在るはずだった母校が時代の流れでいよいよ無くなる事を知った時、私の中で一気に動いた心がありました。

いつまでも
心の中でずっと存在し生き続ける
四中の確かな存在、そしてすべての自分が
この中に居る事を共有し合える
「母校の自分」を描いた象徴作品です。

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画面はかなり小さくここでは分かりづらいですが、作品は一般公開出来るネットでは基本的に掲載しない事が基本なので、説明上ぎりぎりのところで只今その雰囲気だけをご覧いただいています。作品はカラー、白黒、セピア、セピアの思い、の中から「セピアの思い」のソフトフォーカス作品からご覧いただいています。



「四中の我が同窓のみなさまに...」が正直お贈りしたい!

生涯ずっと部屋に飾って側に置いておきたいこの作品写真については、このための専用に設けました閲覧している場所があります。 詳細をメールにてお知らせ致しますので、ご希望在る方のみ下記へお尋ね下さい。


本来ならば、お声をいただけた全員の方に私からの思いをそのままお届けしたいのですが、どうしても写真制作には費用がかかり難しい事情をお汲みください。 そのため写真制作は有償とさせていただきますので、あらかじめご了承の上お尋ねください。

メールアドレスは   ynp_kanagawa@yahoo.co.jp






合わせて今も現役のままだった校舎の光景を記録。



なお、
もう一つの「四中の光景」集の校舎内外の思い出の映像は、そもそも目黒区役所にかつての貴重な四中の映像として閉校後に寄贈する事を考えての撮影記録を致しましたもので、こちらの数百枚にのぼる映像集はDVDにして保存していただくものです。

このブログにも一部その記録の中からの見本として観ていただいているように、こちらに関しては、目黒区へ寄贈するものと同じように自己保存としてDVDで希望在る方には出来る限り同窓生にはお贈りしたい思いがありお使いいただける事は大変嬉しい事であります。今回の一連の母校との関わりで生まれた思いからの形になる作品のすべてが売り物ではない性質のものですから当然有償扱いは考えてないものであります。



ただ、記録媒体の複製をつくるための関わる時間的なものやそもそもの材料もかかる事では、知人関係のみなさまから「全体公開する以上は有償でも良いのではないか」とアドバイスもありまして、数がまとまって来た時の無償も厳しい所も確かに想定出来ますし、その事ではとりあえずDVDに関しましては私が只今全国展開でのテーマへの活動をライフワークとして致しております事から、その活動への資金に充てる意味で金額はみなさまの自由金額にして、言わば活動への賛同の寄付と言う事にさせていただこうかと思います。
そう言うかたちにてお渡しする事ではいかがなものでしょうか。

4階の3年生教室が並ぶ廊下  「四中の光景」集DVDからの映像から。

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この数百枚の光景集を、上記の作品の写真制作の閲覧場所に掲載して、好きなものを写真としてつくる事のものも出来るようにはしたいと思っております。DVDではなく写真としてアルバムなどに貼っておきたい方にはそちらから個々にお求めくださればと思います。


教室の思い出   「四中の光景」集のDVDの映像から。
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「DVDにまとめた四中の光景」の一部より。只今こちらの画質は落としてあるために荒れて見える事があります。




この「四中の光景」についてのお尋ねも、こちらのメールにてお尋ね下さい。

         ynp_kanagawa@yahoo.co.jp





「四中の光景」集の中には、この度の閉校式の交流会での模様も合わせて納めています。 当日来られた方、そして遠方や知らなくて来れなかった方など、四中の最も節目のその時の模様をご一緒に受け止めてください。


2015年3月15日 閉校式交流会の在校生全員の催しと玄関前の同窓生による賑わい。
「四中の光景」集のDVDの閉校式映像から。

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この日、交流会での催しでは、卒業生として俳優の石田純一さんが来られて当時を語る会がありました。 四中だったんですね。私はまったく知りませんでした。なんとも私が在校中の2級上の先輩だったなんてさらにビックリしました。  つまり1年の時に3年生だったと言う事なんですね。




4中1この場所にて「四中の思い」が記録されました。↓

2015年1月20日の四中の時間、エンジのジャージー「四中の光景集」より。

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「DVDにまとめた四中の光景」の一部より。只今こちらの画質は落としてあるために荒れて見える事があります。



【作品が出来るまで】____________

これは、閉校年度でありました平成26年度の秋も深まった11月下旬、43年ぶりに四中を訪問し、校長の牛島先生と学年の実務を担う佐々木先生とお会いする事からはじまりました。

そもそも私自身が...........ちょっとだけ自己紹介をしますと、
1996年からの20年来続けて来ている「こどもたちに会う」テーマの全国規模で小学校、中学校の訪問活動があります(この3年前からは保育園や幼稚園などの小さなこどもたちの訪問活動も加わります)。  その事で、長年学校を通してこどもたちと会うテーマでの記録作品活動をしている私にとって、「学校」と言う意味合いもそうですが、それ以前に先ずは私の母校である事での思いがこの「学校」との関わりでは残された時間の中で“出来る事”、自分が“やるべき事”を考えるものでした。  それは言わずともこうしたテーマを掲げて来た縁がそれらをさせる思いにほか在りません。  しかしながらなんとも複雑な思いの中で大きな形となってのしかかって来たものでした。
閉校を知ったのは、年に2度程の同期の級友たちとの「目黒の飲み会」席の中で、今年度に閉校すると言う情報を知り、あまりの突然の言葉に戸惑いと共に大きく心が揺ぎました。 しばらく四中に関しては何も考える事など出来なかったのですが、その7月の飲み会からあっという間に11月にもなり、とにかく何か行動しなくては、、、、と焦るばかりでした。


記録はそんなはじまりからの四中、最初で最後の記録としてのものから出来ました。



そもそもこの記録は、
私の長年積み重ねている「おらが学校の....!おいでよ~ここへ!!」
「こどもがたいせつ....こどもが宝....こどもはみらい!」の作品の一つとして実際のメッセージ発信のための展覧会用です。

ご関心、ご興味が向けられましたらぜひホームページにお訪ねくださいませ。
(参考資料:http://norinao.com/  ホームページ)

それと同時に、四中の閉校に伴って四中を意味する象徴的なイメージ記録への思いをかけてみた事によって実現へと叶った作品である事です。
作品は、ネット上には極力載せない事を基本としているために、ここでは充分にお見せ出来ませんが、私のその活動のホームページの中にも必要あって四中のその時の記録作品の中でカラーのものを載せています。
ホームページの中の「ご案内」ページの中に大きくはありませんが、ここの上記で紹介している「セピアの思い」と共にその様子だけは確認出来ると思います。





記録に至るまでのエピソード。

【学校はすでに忙しい時期に】

そう!中学校は2学期後半ともなると何かと活動だけでなく、特に3年生は風邪もひけない程大切な時期に入って来ており、そもそもがこのテーマでの記録性に在る「全員が四中の風景の中での発信をする」の形が厳しい中のさらに厳しさがあって、ほぼ相談を持ちかけても絶望的でありました。

ただ、一つだけ言える事とは、この思いを形にしない限りは存在はあり得ない事だけは分かる事です。
あきらめる事はいつでも出来る事で、そこからは何も生まない事。そして記録しなければ何も残らない、残して伝えて行く事が出来ないのです。

【校長室】
これらの事を話す間でも大きな責務として何とかなる方法を考えての交渉中が続きました。
どう話しをしても受け入れる事がほぼ絶望的な時間の様子が担当先生から告げられます。
だんだん「希望などは今回はないだろう?!~」の感情さえもお相手の心に生まれて来てしまうくらい互いのやり取りの中で何度も何度もあきらめないための可能性へのお尋ねは繰り返されて行きます。
私。。「もちろん、生徒を全員出せる状況なんてとても無理だと言う事は先生のお話しから充分伝わるもので理解しています。 その上で今、考えたい事とはそうした無理な中で、可能性がどこか在るのではないかなんです」___と言うものを考えるものでした。 「後はそんな現実には無理な中でもどこか隙間で残されたその部分でのお尋ねとなっていますので、今一つ他に方法が無いかを考えて行きたいんです」。。。

そんな交渉をして行く中で、まず今年中の12月はどうにもならないので、来年の3学期の閉校するまでの間で、あとは望みをかけるしか在りません。 校長室でお二人を前にそんな話しをする中で、一つ光が見えて来たものが生まれる。


学校の活動時間で「避難訓練」が在る事が話題の中に浮上。 

「それそれ、、その訓練はどういう風に動かれるんでしょう?!~オモテに出ませんか??」この言葉に反応してくれました。

休み時間は無理なら学校の時間で動く計画のものなら可能性が一気に広がる。
あとは、全員が揃う動きと記録するに多少の余裕の時間がそこにあるかどうかだ。

その結果、

思いかなって1月20日にその日が充てられている事を確認する。 当日とにかく晴れてもらうしかない。 この日のみ可能性があらわれ始めた。
今、そこにすべてを集中させ、待つ事となった。