忘れないうちに、残しておきます。
父と母。
2人の娘(私達姉妹)もそれぞれ結婚し、
実家から程近い距離に住まいを構え、4人の孫にも囲まれています。
66歳の父は定年後3年は嘱託として継続勤務し、
やっと母とゆっくりとセカンドライフを楽しもうとしていた矢先。
母の病はじわじわ。そして時には駆け足で、蝕んでいく。
父は受け入れ、母を見守りながら「それでも幸せ」と言って私たち姉妹に心配かけぬように
明るく過ごしてきました。
そんな父の心と身体が悲鳴を上げました。
2014年4月20日
「目が見えない」
突然の父の訴え。
妹夫妻の判断で休日であったため、近くの総合病院の救急外来を診察。
「脳梗塞の疑い」「激しい不整脈」
という症状により、精密検査を3日後に行うことになり一時帰宅。
母は大好きで大切な父を心配しました。
2014年4月22日
翌々日に精密検査を控えた父は、「身体の痺れ」を訴え、
意識はしっかりあるものの大事をとって救急車にて搬送。
そのまま入院。
父は生死に関わる症状の病を抱えながらも、同じく病を抱える母を心配しました。
「とにかく母を一人にできない」という判断で妹一家が母と実家で過ごすことにしました。
・・・が。
不安や心細さ。大好きな父の入院。
母は想像に難しくなく、短時間でパニック状態に陥りました。
4歳と1歳の孫に暴言を吐き、
昼夜問わずうわごとを発し、
徘徊し、
涙を流し続ける・・・
たった2日。
次は妹家族が悲鳴を上げました。
母からしたら、目にいれても痛くない孫。
たった4歳と1歳の孫。
かわいい盛りの孫。
その孫に母の苛立ちと不安はすべて向いてしまいました。
そんな中。私は何をしていたかと言うと、
父の付き添い。
私の娘の世話。
幸い私の娘は小学生と保育園児ですから、娘たちがいない間に
母や妹ができない事に奔走していたわけです。
父にも母にも妹家族にも「時間がない」という壁と闘いながら、私は悩む暇なく
頭をフル稼働させて、最善を考えました。
と、そこで父の入院した病院の掲示物が目に入りました。
「地域医療連携室」「ソーシャルワーカーによる相談」
光が差しました。
幸い、母も診断を受けた病院。父も現時点で入院している病院。
すがるように門をたたきました。
状況を理解していただき、父の主治医・母の主治医・ソーシャルワーカーさんのお力添えで
当日は無理でも翌日に最寄の認知症を専門として受け入れ可能な精神科病院の
診察予約と保護入院(救急指定病院)措置を根回しいただきました。
2014年4月25日
オットに仕事を休んでもらい、2人で妹一家と母が待機している実家へ向かい
惨状を目の当たりにしたオットと私は絶句。
荒れ果てた居間。
かたつむりのように布団にくるまり動こうとしない母
目はうつろで涙を流したままの母
おびえた表情で妹の背後たたずむ4歳の姪っ子
妹の腕の中で泣き続ける1歳の姪っ子
疲れ果て、正気を感じない無表情の妹・・・
「時間がない」
うずくまる母をオットと2人かかりで車に乗せ、
前日に手配していただいた精神科へ搬送。
そのまま入院。
母にはすべての出来事が理解できておらず。
ただおとなしく病室へ 病院スタッフとともに姿を消しました。
私は、母への安堵と行く末の不安と恐怖と何とも言えない感情で
これまで我慢していた何かがはじけた音が頭の奥でした気がしました。
移動の車の中で、初めてオットの前で涙を流しました。
オットは否定も肯定もせず、ただ車を走らせ、
涙が乾く間も泣く父の待つ病院へ向かいました。
そのオットの黙った姿勢が何とも頼りになり、
これから迎える沢山の出来事をオットの助けを借りつつ乗り越えたいと強く思えました。
きっと母が父の事を頼りにして大好きであることと同じ。
私もオットを頼りにして大好きであることと同じ。
おかあさん。
貴女が記憶すべてを失っても、おかあさんが示してきた家族のありかたを
私は受け継いで生きます。