また、とりとめもなく書くだけなんすけど。
僕の地元は大企業がいっぱいあって、そこの社員のおじさんたちはちゃんと休日を趣味に費やしていたりもする。
で、ジャズやってるおっさんがいて、これがまたスゲー上手かったりする。
技術とか才能とか言い出すと僕はよく分からないけど、ライブに誘われて行って、1000円だか1500円だか払って全然満足なくらい楽しんで帰れる、そんなレベル。
「音楽」ってくくると、あまりに大きくくくりすぎだなとは思うんだけど、「音楽は日本に文化として根付いている」と言っていいだろう。
一流のプロのものを聴く楽しみ方もあるし、自分で下手な演奏を楽しむやり方もある。
演劇はどうだろう、と思う。
もちろん今は到底、文化として根付いているとは言えない。
で、どうなるのが理想なんだろう?という話。
僕ら今プロとは呼べない状況下でやってる人たちがやるべきこと/目指していることはとにかく「良い作品を創る」ことで間違いないだろう。
(そして、「良い作品を創る」ことはプロかどうかとは関係がない。)
「良い作品を創る」と「誰でも参加できる」は基本的に矛盾する。
だとすると、「演劇に文化として根付く」完成形がどうなのかというのが分からない。
個人的には、仕事しながら「演劇やってる」と称する人たちが、仕事があることが理由なのか十分な創作過程を持てずに芝居をうってるのを観て「早く辞めろよ」と思っちゃう人なので、僕に分からないだけかもしれない。
まあ、現状はそれよりもずっと手前、「良い作品を創る」ことをクリアしないといけない段階だから、かえって難しくないんだけどね。
「演出と演技指導は違う!」
と、ときおり言われている。まったく同感。
作品の演出つけてるときに演技指導が間に挟まると、作品の演出っていう作業は止まっちゃう。
その間、共演者は待ってるだけだから、時間の無駄ですわな。
でも、それを言う人、特に知人でそれを言う人が、「ではいつ演技指導をするのか?」については何も言わないんで、不思議だなあとは思うの。
俳優には演技指導は必要だし(演技指導のない演技はつまりひとりよがりの演技だってことだ)
劇団所属俳優ならその演技指導は少なくとも「劇団(本人も含む)の仕事」だよね(だって上手くなってもらわなきゃ困るでしょ)
僕は今無所属だから自分でどうにかするしかないんですがね・・・。
だいたいにおいて、演出の担当者と演技指導の担当者は同じ(兼任)になることが多いと思います。
「演技を見る」という、要求される能力が一緒だから。
となると、「演出」と「演技指導」を混同しているのは、果たして俳優の側だけなのか?ってことが気になるの。
演出家が、気になっちゃって、どんどん時間使ってるってことはない?突き放せばいいのに。
いやまあ、そういえば「演技指導」ってそれ専門の人知らないなって気になったもので。
それだけ、です。
と、ときおり言われている。まったく同感。
作品の演出つけてるときに演技指導が間に挟まると、作品の演出っていう作業は止まっちゃう。
その間、共演者は待ってるだけだから、時間の無駄ですわな。
でも、それを言う人、特に知人でそれを言う人が、「ではいつ演技指導をするのか?」については何も言わないんで、不思議だなあとは思うの。
俳優には演技指導は必要だし(演技指導のない演技はつまりひとりよがりの演技だってことだ)
劇団所属俳優ならその演技指導は少なくとも「劇団(本人も含む)の仕事」だよね(だって上手くなってもらわなきゃ困るでしょ)
僕は今無所属だから自分でどうにかするしかないんですがね・・・。
だいたいにおいて、演出の担当者と演技指導の担当者は同じ(兼任)になることが多いと思います。
「演技を見る」という、要求される能力が一緒だから。
となると、「演出」と「演技指導」を混同しているのは、果たして俳優の側だけなのか?ってことが気になるの。
演出家が、気になっちゃって、どんどん時間使ってるってことはない?突き放せばいいのに。
いやまあ、そういえば「演技指導」ってそれ専門の人知らないなって気になったもので。
それだけ、です。
戯曲に必要な要素について、ちょっとした備忘。
戯曲の場合、基本的には「主人公の成長」がある、と思っている。
「成長」とは書いたけど、「堕ちる」ということでもいい。マイナスの成長だ。
「変化」とちょっと違うのは、単に「彼女ができた」「転職した」とか、状態が変わったということだけでは不十分で、何かその人格が決定的に、不可逆的に変化するようなことでないと駄目だということ。
この辺上手く説明できない。「変容」という言葉がイメージされるけど。
「主人公」は人間でない場合もある。動物を擬人化して主人公にすえるという物語もたくさんあるし、叙事詩なんかは歴史というか「国」そのものが主人公となっていると考えるとしっくりくる。
成長なんだから、はじめの状態と終わりの状態がある。
はじめの状態と終わりの状態が同じでは成長していないことになるので、「結末」ははじめの状態とは違う場所でなければならない。
(場所っていうのは物理的な意味に限ってない)
それから、成長のためにはなんからの試練を乗り越えなければならない。「障害」だ。
「障害」なくはじめから終わりにたどり着いてはドラマにならない。
つまり、「主人公」が「障害」を乗り越えて「成長」し、「結末」にたどり着く、のが戯曲である、
「主人公」「障害」「成長」「結末」が戯曲に必要な要素だと想っている。
そして、「主人公」がはじめから終わりへ向かう方向が「モチベーション」、これも非常に大事だと思う。
「ロミオとジュリエット」は、
ロミオ/ジュリエットが互いに一目惚れをし、一緒になろうとし、互いの家の険悪さという障害をなんとか超えようとし、自立し、しかし最後には些細な食い違いから悲劇的な結末を迎える。
「ロッキー」は、
ロッキーが、チャンピオンになるために、トレーニングを経て強大なチャンピオンに挑み、勝利する。
一見すると上記の例外に見える物語もある。
群像劇は、登場人物のほとんどが「主人公」としての成長を劇中で体験している。
だから、一見すると特定の主人公がいないように見える。
実際には登場人物のほとんどが、それぞれの「障害」にぶちあたり、なんらかの「成長」を伴って結末に向かう。
一方で不条理劇は、「成長」を周到に否定していく。
これによって不条理劇の主人公は劇中で何処にも向かえず、なんの成長も経験しない。
そういう構成のものもある。ただ、その場合は周到にセオリーを回避しなくてはならないと思う。
「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」がわかりやすく提示されている物語は、いわゆる「わかりやすい話」という評価になる。
「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」が明示的でない場合や、些細である場合は、「わかりにくい」という評価になるだろう。
「わかりにくい」「アーティスティック」と言われる作品でも上記の要素はあると思う。
「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」が欠けている物語はぼんやりしてしまう。
というか、欠陥品だと思っている。
また、戯曲に盛り込まれるエピソードは、「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」に結びついてなくてはならないと思っている。
(ノートパソコンの電池がなくなってきたので、このくらいで切り上げる。)
戯曲の場合、基本的には「主人公の成長」がある、と思っている。
「成長」とは書いたけど、「堕ちる」ということでもいい。マイナスの成長だ。
「変化」とちょっと違うのは、単に「彼女ができた」「転職した」とか、状態が変わったということだけでは不十分で、何かその人格が決定的に、不可逆的に変化するようなことでないと駄目だということ。
この辺上手く説明できない。「変容」という言葉がイメージされるけど。
「主人公」は人間でない場合もある。動物を擬人化して主人公にすえるという物語もたくさんあるし、叙事詩なんかは歴史というか「国」そのものが主人公となっていると考えるとしっくりくる。
成長なんだから、はじめの状態と終わりの状態がある。
はじめの状態と終わりの状態が同じでは成長していないことになるので、「結末」ははじめの状態とは違う場所でなければならない。
(場所っていうのは物理的な意味に限ってない)
それから、成長のためにはなんからの試練を乗り越えなければならない。「障害」だ。
「障害」なくはじめから終わりにたどり着いてはドラマにならない。
つまり、「主人公」が「障害」を乗り越えて「成長」し、「結末」にたどり着く、のが戯曲である、
「主人公」「障害」「成長」「結末」が戯曲に必要な要素だと想っている。
そして、「主人公」がはじめから終わりへ向かう方向が「モチベーション」、これも非常に大事だと思う。
「ロミオとジュリエット」は、
ロミオ/ジュリエットが互いに一目惚れをし、一緒になろうとし、互いの家の険悪さという障害をなんとか超えようとし、自立し、しかし最後には些細な食い違いから悲劇的な結末を迎える。
「ロッキー」は、
ロッキーが、チャンピオンになるために、トレーニングを経て強大なチャンピオンに挑み、勝利する。
一見すると上記の例外に見える物語もある。
群像劇は、登場人物のほとんどが「主人公」としての成長を劇中で体験している。
だから、一見すると特定の主人公がいないように見える。
実際には登場人物のほとんどが、それぞれの「障害」にぶちあたり、なんらかの「成長」を伴って結末に向かう。
一方で不条理劇は、「成長」を周到に否定していく。
これによって不条理劇の主人公は劇中で何処にも向かえず、なんの成長も経験しない。
そういう構成のものもある。ただ、その場合は周到にセオリーを回避しなくてはならないと思う。
「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」がわかりやすく提示されている物語は、いわゆる「わかりやすい話」という評価になる。
「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」が明示的でない場合や、些細である場合は、「わかりにくい」という評価になるだろう。
「わかりにくい」「アーティスティック」と言われる作品でも上記の要素はあると思う。
「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」が欠けている物語はぼんやりしてしまう。
というか、欠陥品だと思っている。
また、戯曲に盛り込まれるエピソードは、「主人公」「モチベーション」「障害」「成長」「結末」に結びついてなくてはならないと思っている。
(ノートパソコンの電池がなくなってきたので、このくらいで切り上げる。)