三島由紀夫に就いての評論は、生前から国内外で多くの文学者や文芸評論家等が様々

に書いている。 当方も様々な評論集を読んできた中で秀逸なのは西尾 幹二氏(88)

の著作ではないかと思っている。

       

    

西尾氏はドイツ文学者であり評論家で、特にニーチェの研究では第一人者だ。 

彼は雑誌や対談などでも三島由紀夫に就いて多く語っているが、集大成としての評論

に「三島由紀夫の死と私」(2008.12.9発刊)がある。  

三島の親友でもあった仏文学者の澁澤龍彦氏(1928-1987)は、数多くの三島論の中で、

三島の本質を理解した分析考察は西尾氏の評論であると賞賛していた。

 

一方で三島由紀夫に就いて侮蔑的発言の他、彼の文学を軽視した評論を書いた江藤淳

(1932-1999)に対しては、西尾氏は非常な違和感があったと『三島由紀夫の死と私』 

の著書で明言した。

 

江藤淳は三島の決死の行動を、 『”ごっこ”の世界が終わった』 と言いそして又、

当時45歳の三島由紀夫を 『三島には老年が来たのか、或は一種の病気でしょう』 

と三島の言動を言うに事欠いて “病気” とか ”ごっこ” と嘲笑したのだ。

         

         【小林秀雄と江藤淳の対談風景

 

1971年に文芸評論家の小林秀雄(1902-1983)が江藤淳と対談した際、江藤が係る

発言をした時に、間髪を入れず小林は江藤に向って 『それは違うでしょ、貴方は病気

と云うけどな、”日本の歴史”を何と言うか! 吉田松陰は病気か!』 と非常に強く

批難したのだ。要するに小林秀雄は三島由紀夫を吉田松陰と同列に評価していたのだ。

 

因みに、小林秀雄に限らず、三島由紀夫を吉田松陰と並び称する評論家も多い

そして、松陰と比較し三島に欠けていた点は唯一教育者ではなかったことだ、要するに

後継者(文学上だけではなく)を教育しなかったことだと云われている。 

一方松陰は明治維新への原動力となった、高杉晋作、山縣有朋、桂小五郎や久坂玄瑞

などの人材を育てた。  言うまでも無く、三島の「楯の会」は 松陰の「松下村塾」 

とは抑々設立目的が異なっていた。