実は10月○日は自分の誕生日だった。
変人の私は家族に「頼むから何もしないで!何も要らないから」と伝えている。
だから毎年、ひとりでその日を終えている。
誰にも何も求めないし、忘れて欲しいくらいだ。
ところが昨日夕方、長男がやってきて
「ずっと気にはなってたけど、遅れてごめん」と。
わざわざ持って来てくれたのに、さすがに要らないとは言えず、受けとった。
が、内心は『お花たちごめんね、私の為に……』
と思っていた。自分は野花を摘むのにね

孫たちは
これが嬉しい

これだけでいいのだ。
モノは要らない。
息子たちには自分の事で無駄なエネルギーやお金を使わせたくない。
それなら自分の人生を楽しむ事を優先してほしい。
このモノで溢れた世の中
プレゼントをいただいたけど、結局好みに合わず使わないけど捨てるに捨てられず……なんて話をよく聞く。
無駄になることは最初から要求しない。
モノたちは、本当に必要な場所で使われる事で使命を果たす。(と、勝手に思っている)
ちなみに次男坊も以前、こんなラインを

変人の自分が誕生日にしている事は
産んでくれた親への感謝
ご先祖さまへの感謝
自分が出来る事を精一杯出来ているのか、自己との対話だ。
自分が今、命と魂を使い人生を楽しめているのは、ご先祖さまたちが居たからだ。
ずっと命を繋いでくださったから、今の自分がいる。
そして今でも見守ってくださり、知恵や閃きを下さる(と勝手に思っている
)

だから自分の誕生日は
誰かに祝ってもらうのではなく、自分がこの地球に産まれた奇跡を感謝する日なのだ。
先日、次男坊が面白い話をしていた。
次男坊
この世の中には2種類の人間がいる
ただ生きているだけの人
もう1つは、生きる喜びを自分に与えている人
それって遺伝子の違いらしいよ?
ネットで見たんだけど
でもね実際いるよね、オレの周りにもいる。
生きてて楽しいのかなって思える人が。
次男坊とこのこの話題について盛りに盛り上がった。
若い頃、誕生日を祝って欲しかったのは自分の外側に求めていたから。
今は、全てが自分の内側に『有る』ことに気がついた。
気がついたら物欲が減少した。
外側に期待もしないし、求めない、全て自分次第だと言うことにも気がついた。
すると揉め事や争いも自分の世界から消えた。
物事の本質に『気づく』か『気づかない』かでも分かれている。
それぞれの選択だからそれでいいのだか。
命と魂があるからこそ、多くを体験できるのだから自分は有り難く体験させてもらう

自分にとっての誕生日とは、命と魂があることに感謝する日で、これからもそれは続けたい。