実家へ行くと兄と顔を合わせる時がある。
仕事を終えた兄が、あーだこーだと話をした後に言う。
「疲れた~」と。
補足⇨仕事を3つも掛け持ちしている。
そこですかさず私が言う。
「そんなに疲れるならやめたら?」←笑顔で
そんな事を繰り返すうちに、私の前で疲れたと言わなくなった兄(笑)
仕事を3つも掛け持ちしてくださいと、私は頼んでいないし、疲れるほど働くのが立派だとも思っていない。
別な話
母が、夫の愚痴を言う。
なので、「そんなに嫌なら別れたら?」と笑顔で言う私
そんな事を何度かやり取りしているうちに、あまり愚痴を言わなくなった母(笑)
自分が好きで一緒になっただけで、私が結婚してくださいと頼んだ訳ではないから。
疲れる事を自ら選択しているのは自分。
愚痴を言うその夫を選んだのは自分。(逆も然り)
結局、それを選択しているのは自分であり他人ではない。
イヤならやめればいいだけ(笑)
なのに、何らかの理由でやめないのも本人の選択。
その理由の部分には目を向けない。
「疲れた」と言う言葉も「愚痴」も、第三者にとっては「疲れる」だけということに気がついた過去の自分。
だから今は「疲れる」ことはしない。生きていると仕方がない時もある。だから、その時は自分に「頑張った」と言う。
そして、愚痴を第三者に聞いてもらっているうちは、何も解決はしない。自分の心がどう感じたかをとことん見つめる。そこにはわかって貰いたいのにわかってもらえなかった悲しい自分がいる。
自分も含め、人間というのは不器用なものだ。
選択できない現実も確かにある。
でも、選択できる事も出来ないと思い込んでいる。
そして、誰かや何かのせいにする。
誰かや何かのせいにするなら、やめたらいい。
やめれない理由すらも、誰かや何かのせいにする人を見ていると、もはやパロディでしかない。
疲れることはやめたらいい。
もしやるのなら、「頑張った」と言えばいい。
愚痴るなら離れたらいい。
もし聞いてあげるなら「じゃどうしたい?」と聞き返す。
そんなことを意識するだけで現実はみるみると変わりだす。
そして、それを選択しているのは自分だということに気づくこと。