隣に住んでいた独り暮らしのおばあちゃん………
 
とうとう、介護施設に入所しました。
 
 
 
 
3年ほど前、おばあちゃんのとても広い玄関前の除雪を1人でこなすのは大変だろうと、運動がてら1人でせっせと行っていました。
もちろん、おばあちゃんは喜んでくださいました。
 
が…………
 
その後、どんどん歩けなくなり………ショボーン
 
 
「優しさ」や「親切」だと思って行動した事が、かえっておばあちゃんの足腰を弱らせてしまったのではないか
 
と、自己嫌悪に陥りました。
 
 
優しさ、親切、思いやり
 
これらの違いはなんなのでしょう。
 
 
良かれと思いしたことも
実は自己満足だったのではないか…………
 
 
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畑で、草刈り機で草を刈っていると、隣の畑の奥様が「すごいねぇ~私は出来ないのよ」とおっしゃりました。
 
 
 
やってくれるご主人がいますからねニコニコ(ひねくれている訳ではありません)
 
私は自分しかいません。
 
誰かがしてくれるならそれに甘えたのかもしれません。
 
でも、それだとつまらないのです。
 
草刈り機の使い方を知るという経験を失う。
 
薪ストーブの設置も、チェンソーの使い方も、その他の何もかもが、その過程に意味があり自己の好奇心を満たす為に、そして体験する為にやってみている。
 
なので、私をよく知るひと達は、私を放置してくれます。
有難いです。
 
 
放置しても勝手に育つとでも思っているのかもしれません(笑)
先日のキャベツのように………爆笑
 
 
 
ただ、誰もが私のような人ではない為(ソリャ、ソーダロ(^_^;))、相手の立場に立った時に迷うのです。
 
 
手を貸す事が優しさなのか
手を出さずに見守る事が優しさなのか
または、助けを求めてくるまで待つか
 
どうしたら相手の為になるのだろう。
 
 
優しさとは何なのか
親切とはどこまでが親切なのか
思いやるとは何なのか……………………
 
 
 
我が息子たちはと言うと、もちろん放置です。(もう大人ですから)
相談は受けますが、自分で決めるように促します。
自分で決めた事だと、どのような結果であったとしても受け止めるしかありませんから。
 
そして、8才と6才の孫達にはある程度の可能性を話した上で本人に選択させています。
 
自分の人生は、自分で選択する事をなるべく小さなうちから癖づけしたいという老婆心から。
 
 
 
 
また、「ありがた迷惑」なんて事があります。
頼まれずとも、手を貸すことで「迷惑」になりかねない。
 
 
もちろん、自身もどうしても出来ないことは専門の方々に頼ります。
 
 
だから、相手が助けを求めてきてから手を貸すべきなのか………
それとも、頼みずらいであろう相手の気持ちを汲んで先回りし、声をかけるべきなのか。
 
 
優しさと親切の使い方
 
難しいです。
 
究極、何もしないのが1番の愛情なのではないかとも最近は思いつつあります。
 
 
よほどの事がない限り、ギリギリの追い込まれたところで、ヒトはチカラを発揮できるのではないか。
 
愚痴をこぼしている間は物事は何も解決せず、本当に追い込まれた時にこそ、どうにかしなければならないスイッチが入るという気がします。それは、自身の経験から。
 
誰かに頼ろうとするうちは、本領を発揮できず、誰にも頼れない状態になった時に初めて本領を発揮できるのが、ヒトの持つ隠れたパワーなのではないか、と。
 
 
 
 
 
自分がどう動くと、皆が笑顔になれるのか………
 
自分とはなにか。
何をどうする為に今この場所に存在しているのか。
自身のこれまでの経験という、宝の持ち腐れを防ぐ為に出来ることは何なのか。
 
 
田舎の変人が考えるのは、日々こんな事です。
 
 
まあ、でもそのうち答えは見つかるでしょう。 

 

 

 

コレがありますからねおねがい
 
学びとは奥が深いのだなと思う今日この頃です。
 
 
 
 
 
本日もお読みくださりありがとうございましたニコニコ