例えば自死を決意されたり、病気で余命宣告されている状態の方が最後のことばとして「遺書」というタイトルのブログを投稿されたとして、その文章が本当に最後の文章、遺書になる可能性はどれくらいあるのだろうか。また、そのブログの内容が本当にタイトル通り「遺書」にあたる可能性はどれくらいあるのだろうか。
成長していくにつれて、死が身近になっていく。実際に毎秒わたしたちは死へ歩を進めているし、それ以上に、こう、精神的なものとして死が迫り来る感じがする。
それはそれとして、近年「死」がファッションとして利用されているようにも感じる。わたしはオタクであるのだが、「神」だの「死んだ」だのそういった言葉が軽々しく使われる風潮があるように思われる。わたしはそれなりに言葉に気を付けるタイプではあるが、そういった風潮に感化されていないとも言えない。精神病も所謂「病み垢界隈」というものでは一種のステータスになるらしい。わたしも自分の疾患を隠すことはしないし、こういった場で死に言及している時点で似たようなものである。未来の自分が苦しむだけなので一応、イタい不幸自慢が過ぎないよう気をつけてはいるつもりだ。
さて、冒頭で触れた「遺書」について。死が身近に存在する現代だからこそ「遺書」が本当に遺書であるとは限らないのだ。自分の感情を過剰に表現しているだけかもしれない。本当に遺書にするつもりはなくて、誰かに止めてほしいという必死の不器用な叫びかもしれない。開いてみるまで分からない、まさにシュレディンガーの遺書である。(頭が悪いので分からないが、本物の遺書である または遺書になる状態と遺書でない状態が開いて読むまではどちらも成立する、という点でそう言えると考えている。)
ここまで書いたが実は特に言いたいこともない。精神を落ち着かせるために頭の中にあるものを全て放出して駄文を生成しているだけである。ただ、もしもわたしがいつか「遺書」というタイトルのブログを投稿し、その後パッタリ更新が止んだとしたら、生きているか死んでいるか、それが本物の遺書だったのかどうか、読者の皆様には判断の仕様がないよなあとは思った。
わたしの好きだった人が自死を仄めかす発言をしてSNSを去り、半年が過ぎた。