マカロンの賞味期限が迫っていた。なんとなく、そのままバクバクと消費するのはマカロンに申し訳ない気がして、マカロンのための華やかな舞台を用意する。食器棚にしまわれたままになっているティーセットを取り出して、いつか海外で購入した茶葉を使い紅茶を入れる。現実など捨て去ってどこかの国の令嬢になることができた気がして心地よかった。


実際のわたしはお城でもなんでもなく、都内の集合住宅の、地下の家に住んでいる。


半地下ですらなく、完全な地下である。


この家は元々祖母の不動産だ。教養のないわたしには分からないが、恐らく税金関連か不動産投資か何かで購入し、当初はわたしたち家族が住む予定の場所ではなかった。しかし両親が離婚した際に母側についたわたしと弟と黒うさぎの住まいに困ってしまったため、今はわたしたちが住んでいる。



家は、わたしにとって唯一の居場所であり、そうでなくてはならない場所でもある。家 に固執している。


たかが19年、されど19年。わたしの人生を語る上でネガティブな話題は避けられないが、一体どの出来事がわたしの人生を1番狂わせたのだろうか。


中学2年生で摂食障害を患ったとき?自律神経が乱れて朝起き上がることができなくなったとき?学校に行けなくなったとき?行きたくないと思い始めたとき?それとももっと前から?


しかしよく考えてみれば、この頃はまだ多少なりとも生きたいという意思は持っていたと思う。


やはり決定的な出来事は中学3年生の冬に発症した 急性リンパ性白血病 による長期入院ではないだろうか。



正直、病気になったことは辛くもなんともなく、抗がん剤の副作用もあったが耐えられないほどではなかった。わたしを歪ませてしまったのは、変えてしまったのは、病気そのものではない。


手を伸ばせば届くところにまで近づいてきた死という存在である。


人間の体は思っているよりも脆い。死は不公平だが平等に訪れる。それなら、わたしはなぜ生きているのだろう?


いつか死ぬ。絶対死ぬ。なにかしてもなにもしなくても死ぬ。幸せでも不幸でも最後には死ぬ。それなら。


これ以上不幸にならないうちに。幸せなうちに死にたい。


生きている意味なんてないのである。全てが自己満足で殆どの人は何者にもなれないままこの世を去る。生きて欲しい、なんていうのはエゴである。わたしは親不孝者で不敬で愚かな人間だ。動物的な本能であるはずの生に対して懐疑の念を抱いている。例えば、うさぎは自ら命を絶つようなことはしない。生きて種を紡ぐことは動物の本能だから。本能のまま、疑うことなく従っていればどんなに楽だっただろう。しかし中途半端に知能を持ったわたしのような人間は自分の生に疑問を持ち、考え、結局何者にもなれないのだという現実に打ちのめされて絶望する。このテーマを忘れ、一時の幸福に身を委ねても虚無が倍になって返ってくる。あと何回繰り返せば良いのだろう?


高校生のうちに死にたかった。18歳のうちに死にたかった。自殺未遂を3回して、2回ICU、1回閉鎖病棟に入院した。そんなわたしも数ヶ月前に19歳になってしまった。わたしが19歳になった日、母方の祖父と、7年以上連れ添った黒うさぎの姿はなかった。


死は不公平だ。死にたいものが生き残り、生きるべきものばかり去っていく。


2025年ももうすぐ終わる。祖父もうさぎも2026年に進むことができなかった。このまま年月を重ね、存在も思い出も過去のものになるのが堪らなく嫌だ。いつまでも、2025年に縋っていたい。




ティーセットを片付けて、チョコレート味のマカロンは弟にあげた。加害恐怖と見捨てられ不安に苛まれ、ベッドに向かう。