暦は立秋を迎え、1年でも一番暑い季節になりました。
今年も、6日には広島の原爆記念日、9日は長崎。
そして15日には、76回目の終戦記念日を迎えます。
それで今日は、平和への想いを込めて、私が子どもの頃から聞いてきた、母の戦争体験について綴ってみたいと思います。(本人の了解を得て投稿しています。)
文字とはいえ、酷い場面もありますので、心配な方は読むのをお控えください。
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私の母は東京生まれ。大田区の蒲田というところに住んでいたそうです。
兄弟は、兄と弟、妹の4人兄弟。
祖父(母の父親)は体が弱く、いつも健康診断で引っかかって出征を免れていたそうですが、昭和19年、いよいよ戦況が逼迫してくると、健康状態には関係なく”赤紙”が届きました。
祖母にはこっそりと、「行きたくない」とこぼして、出かけたそうです。
外でそんなことを言おうものなら、非国民と言われ、犯罪者扱いされた時代でした。
東京で大空襲が起こったのは、昭和20年の3月。母が5歳の時でした。
長男の伯父は学童疎開で、事前に祖母の実家のある田舎に疎開していました。
いよいよ空襲になると、防空壕にいるわけには行きません。
祖母は、次男を近所の方に預け、もし逃げ延びたら駅で落ち合う約束をしました。
乳飲児だった叔母をおんぶし、おむつの入ったバケツを持って、母と逃げました。
途中でとある家に逃げ込みましたが、
「ここも、もう危ないから。」
と言って渡された毛布が、火を避けるのにとても役立ったそうです。
それでも、火だるまになった柱が次々と倒れてきて、行く手を塞ぎます。
「もう、だめだ。諦めよう。」
と祖母が言うのを、母が、
「どうせだめなら、行ける所まで行ってみよう。」
と進んでいくと、兵隊さんが誘導している六郷の土手に行き当たりました。
熱さから逃れようと川に飛び込んだ人たちはみんな、川の熱さで亡くなってしまい、多摩川にはたくさんの遺体が流れていたそうです。
気がつけば、おむつの入ったバケツどころか、履いていたはずの草履もいつの間にか失くなり、裸足でした。
駅に行くと、奇跡的に、約束の場所で弟と再開することができました。
一夜明け、家の焼け跡を見に行きました。
「ここが玄関。ここが台所だった、、、。」
と言いながら見て歩いたという場面は、私が子どもの頃に見た映画『ガラスのうさぎ』の一場面とダブります。
焼け野原の中、たくさんの遺体の上に筵(むしろ)がかけてあり、お友だちのお母さんが我が子の名前を呼びながら、筵をめくって探していました。
それから家族は祖母の田舎で暮らすことになります。
女手ひとつで子ども4人を育てることになった祖母。
生活は、楽ではなかったようです。
お友だちがズック(くつ)を履いているのに、母たちは草履。
傘もなく、雨が降ると、蓑を着るのが恥ずかしくて、みんなが帰るのを待って下校したとか。
それでも、父親が帰ってくるのを楽しみに、通学途中のお地蔵さんに無事を祈り、勉強も頑張りました。
けれど2年後、フィリピンのルソン島で戦病死したとの訃報が届きます。
残されたのは、出征前に残して行った髪と爪だけ。
母は夜中に、弱音を吐いたことのなかった祖母が、
「お父さんを返して〜」
と嗚咽を漏らしているのを聞いたそうです。
悲しみのあまり、お父さんに見せようと大切にとっておいた成績物は、全て燃やしてしまったのでした。
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以上が、弱冠5歳から7歳だった母の、私が聞いた戦争体験です。
戦争の話は、私の方からせがんで聞いていたように思います。テレビや映画や本などでも、自分から戦争について知ろうとしました。
幼かった母の、あまりにも辛い体験が可哀想で可哀想で、私もその苦しみを背負いたいと思っていたのかも知れません。
一人一人が受け止めるには、あまりにも過酷な戦争体験。
人の命が軽んじられ、一人一人の心が踏み躙られた時代。
その日その日が精一杯で、気持ちを受け止めるなんていう余裕もなかったことでしょう。
第二次大戦以来、日本では戦争はなく、平和な日々が続いています。
けれど、戦争は、本当に終わったのでしょうか?
ニュースで流れるさまざまな事件や、自殺の増加などに、戦争の傷跡を感じることがあります。苦しみは、連鎖するのです。
それでも時代は大きく変わり、一人一人の人権が尊重されるようになってきました。
私たち一人一人の生き方次第で平和は守れると、信じられます。
どうかどうか、二度と戦争が起きませんように。
どうか、世界中から戦争が無くなりますように。
一人一人が自分と向き合い、お互いに手を取り合って生きていくこと。
自分を許し、癒しながら、平和を守る強さを身につけること。
肝に銘じます。
おりしも今年は、東京オリンピックとパラリンピック。
まさに、平和の祭典ですね。
コロナ禍の困難を乗り越え、人種や国境を超えて、スポーツをフェアに楽しむ姿を見せてくれた選手の皆さんに、感謝。
その輪が、世界中に広がりますように。
それから、過酷な時代を生き延びて、私を産んでくれた両親に、感謝。
産んでくれて、ありがとう。