再投稿 三島由紀夫が目にしていた日本の戦前と戦後 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy)

    2年前の記事の再投稿です。

     

    三島由紀夫という方は、作品とその生き方そのもので、日本人にとって忘れることのできない人物です。

     

     

    彼の作品の凄さ、見事さや哲学において、彼に比肩する作家は日本にはいまだ現れていないのではないのでしょうか。

     

     

    ■三島由紀夫の幼少期から青年時代までの日本

    三島由紀夫は1925年(大正14年)1月14日生まれ。

     

    幼少期から青年期にかけて、昭和恐慌(1929年)、五・一五事件(1932年5月15日)、二・二六事件(1936年2月26日)、日中戦争(1937年~1945年)大東亜戦争(1941年~1945年)など、日本の最も暗い時代を過ごした。

     

    終戦の年がちょうど20歳のときです。

     

     

    ■三島由紀夫が目にした戦前の日本

     

    宮崎駿監督がジブリ作品として最後に描いた「風立ちぬ」をご覧になった方も多いかと思いますが、時代背景としてちょうどこの時代が描かれていましたね。

     

    「1920年代の日本は不景気と貧乏、病気、そして大震災とまことに生きるのに辛い時代であった」とあります。

     

     

    大正末期から昭和にかけ、日本では3つの「恐慌」が続けて起こっていました。

     

    「恐慌」とは、「大量生産や過剰な設備投資により生産と消費のバランスが崩れ、景気が大きく後退し、株価暴落や企業倒産、失業が大規模に発生し、経済に深刻なダメージを与える」などの現象と説明されています。

     

    1929年、世界恐慌が起こった後に日本では金解禁が断行され、正貨が大量に流出し、企業の倒産、賃金の引き下げが起こり、深刻な恐慌を招いたとされ、「昭和恐慌」と呼ばれている。

     

    「昭和恐慌」以前に、第一次世界大戦終結で日本経済不況へと連絡した「戦後恐慌」(1920年~)や1923年の関東大震災発生によって起こった「震災恐慌」(1923年~)では第二次山本権兵衛内閣はモラトリアムを発令し、さらに政府は日本銀行に特別融資を行わせ、恐慌の鎮静化を図ったものの決済が不可能となった手形(震災手形)が発生し、不況は慢性化していた。

     

    ■昭和恐慌 金融恐慌(1927年)(昭和2年)

    1926年、大正から昭和へと時代が移り変わると、翌1927年に不良債権化した震災手形の処理をめぐって議会で審議が行われた。その議会で、片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言。これにより、銀行では取り付け騒ぎが発生し、銀行の休業が相次ぐことになった。戦後の不況により鈴木商店が倒産したことで、鈴木商店への巨額の不良債権を抱えていた台湾銀行は経営難に陥った。

     

    「鈴木商店」は三井や三菱に迫る勢いで成長を遂げていた総合商社だった。第一次若槻礼次郎内閣は台湾銀行を救済するために緊急勅令をだそうとしたが、枢密院が否決したために勅令は出せず、若槻内閣は総辞職を余儀なくされた。

    【昭和恐慌とは】簡単にわかりやすく解説!!背景や影響・対策など【特徴まとめ】 | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)

     

     

     

    ■海軍と陸軍の青年将校らによる2つのクーデター事件

    五・一五事件(1932年)(昭和7年)

    1932年(昭和7年) 5月15日 に日本で起きた反乱事件。 武装した海軍青年将校達が 内閣総理大臣官邸に乱入し、 内閣総理大臣犬養毅を殺害。

     

     

    二・二六事件(1936年)(昭和11年)

    1936年(昭和11年)2月26日から2月29日2にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞が関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

     

     

    三島由紀夫の代表作の一つである「憂國」は1936年に起こった「二・二六事件」の外伝といわれています。

     

     

    また、「豊饒の海」第2部「奔馬」は、昭和初期に起こった「血盟団事件」という右翼青年が起こした事件を題材にしていました。

     

    豊饒の海 - 第二巻・奔馬 - わかりやすく解説 Weblio辞書

     

    参考:

    右翼思想によるテロリズム①~血盟団事件 - eternalturquoiseblue (goo.ne.jp)

     

     

    三島の遺作となった「豊饒の海」は『浜松中納言物語』を典拠とした夢と輪廻転生をテーマとする「究極の小説」ともいわれる長編小説でした。

     

     

    ■豊饒の海
    雑誌「新潮」で連載て初出。「春の雪」(1965年~1967年1月号)「奔馬」(1967年2月号~1968年8月号)「暁の寺」(1968年9月号~1970年4月号)「天人五衰」(1970年7月号~1971年1月号)。

     

     

     

     

     

     

     

     

    三島由紀夫の思想や哲学の中には仏教的な要素が背景にあった。

     

     

    彼に「輪廻転生」という「仏教的思想」が根底にあったのは、彼がまさしく日本人であったから、といえそうです。「輪廻転生」という思想は仏教の思想です。

     

     

    英語にもReincarnationという単語がありますが、キリスト教やイスラム教では、一部の宗派を除き、殆ど宗派は個人の生まれ変わり「輪廻転生」を信じていない、とあります。

     

     

    日本人として生き、日本人としてこの世を去った三島由紀夫が命がけで日本人に呼びかけたのは、日本が誇りある独立国に戻ることでした。(「檄」文参照)

     

     

    三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で「盾の会」の4名と共に行動を起こし、自決したのは1970年11月25日。享年45歳という若さです。

     

     

    「輪廻転生」を信じている人間ならば、現世でどれだけ生きたかではなく、どのように生きたかこそが問題であったようです。

     

    三島事件 - Wikipedia

     

     

    東京大空襲(1944年11月24日~1945年8月15日)

    第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にに米国により行われた、東京都区部に対する、M69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上負傷者は、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった。

    東京都は、1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。

    その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」を指す(77年前)この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた

     

     

    ■「終戦」

    日本人にとっては8月15日が「終戦」、連合国にとっては「降伏文書」に日本が調印した9月2日が「終戦」と解釈されています。

     

    ■「降伏文書」調印後はGHQによる日本統治が開始

    終戦の年の1945年9月2日に戦艦ミズーリの上で「降伏文書」に調印した日本は連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQ(General Headquarters)の統治下に置かれた。

     

    参考:

    ミズーリの上に飾られた2つの星条旗の意味 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)

     

     

    ■日本国憲法の起草と公布

    「日本国憲法」が「大日本帝国憲法」に代わって、GHQ統治下の 1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行。

     

     

    実は草案には民間の日本人も関わったといわれています。

     

    日本人民間からなる「憲法研究会」というグループがあり、GHQの草案に影響を与えたとされます。

    憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。

     

    事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。研究会内での討議をもとに、鈴木が第一案から第三案(最終案)を作成して、12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。

     

    また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。

     

    同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。

     

    なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている

    憲法研究会「憲法草案要綱」 1945年12月26日 | 日本国憲法の誕生 (ndl.go.jp)

     

    「日本国憲法」発案者は日本人だった!? GHQマッカーサー草案の闇|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

     

     

     

    ■「検閲」による言論統制によって”戦後民主主義”が形成
    憲法の起草や公布よりもまずGHQが真っ先に何を行ったかといえば、昭和20年(1945年)9月19日に、SCAPIN-33(最高司令官指令第33号)「Press Code For Japan(日本に与うる新聞遵則)」を最高司令官(D.MacArthur)を通達し、言論統制を開始しています。

     

     

    具体的にはプレスコード(日本に与うる新聞遵則)(SCAPIN-33)と呼ばれるもの。

     

    GHQがあらゆる言論や情報、著作物を「検閲」し、米国のプラグマティズムの価値観を移植され、”戦後民主主義”と呼ばれる社会風潮が広まった。

     

     

    実はこの「検閲局」の人員のには当然ながら、多くの日本人スタッフが嘱託として関わったのだそうです。

     

     

     

     

    実施者は米太平洋陸軍総司令部民事検閲部。

    検閲はGHQ参謀部のうち情報担当のG-2(参謀2部)所管下の民間検閲支隊(CCD Civil Censorship Detachment)によって実施。

     

    1948年(昭和23年)には、GHQの検閲スタッフは370名で、日本人嘱託5700名、総勢8000人を超えていたとする説もある。

     

    新聞記事の紙面すべてがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日約5000本以上であった。

    1. 報道は絶対に真実に即すること
    2. 直接又は間接に公安を害するようなものを掲載してはならない
    3. 連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加えてはならない
    4. 連合国進駐軍に関し破壊的に批評したり、又は軍に対し不信又は憤激を招くような記事は一切掲載してはならない
    5. 連合軍軍隊の動向に関し、公式に発表解禁となるまでその事項を掲載し又は論議してはならない
    6. 報道記事は事実に即し、筆者の意見は一切加えてはならない
    7. 報道記事は宣伝目的の色を着けてはならない
    8. 宣伝の強化拡大のために報道記事中の些細な事項を強調してはならない
    9. 報道記事は関係事項や細目を省略する事で内容を歪曲してはならない
    10. 新聞の編輯に当り、何らかの宣伝方針を確立し若しくは発展させる為の目的で、記事を不当に軽く扱ってはならない

    ■削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)

    1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
    2. 極東国際軍事裁判批判
    3. GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判
    4. 検閲制度への言及
    5. アメリカ合衆国への批判
    6. ロシア(ソ連邦)への批判
    7. 英国への批判
    8. 朝鮮人への批判
    9. 中国への批判
    10. その他の連合国への批判
    11. 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
    12. 満州における日本人取り扱いについての批判
    13. 連合国の戦前の政策に対する批判
    14. 第三次世界大戦への言及
    15. 冷戦に関する言及
    16. 戦争擁護の宣伝
    17. 神国日本の宣伝
    18. 軍国主義の宣伝
    19. ナショナリズムの宣伝
    20. 大東亜共栄圏の宣伝
    21. その他の宣伝
    22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
    23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
    24. 闇市の状況
    25. 占領軍軍隊に対する批判
    26. 飢餓の誇張
    27. 暴力と不穏の行動の煽動
    28. 虚偽の報道
    29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
    30. 解禁されていない報道の公表

    プレスコード - Wikipedia

     

     

    新憲法「日本国憲法」第21条に「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」とあり、当時検閲官だった人物っで「GHQ検閲官」の著者である甲斐弦という方は「(これを)読むたびに失笑を禁じ得ない」と。

     

    参考:

    「戦後統治」され続けている日本のこれまで | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)

     

     

     

    三島由紀夫「檄文」全文

    われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

     

    かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。


    われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 


    われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。


    四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。


    しかるに昨昭和44年(1969年)10月21日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。


    銘記せよ! 

     

    実はこの昭和44年10月21日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来20年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。


    われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。


    われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。


    この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
     

    沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
     

    われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

     

    三島由紀夫

     

    戦後一貫して続いている「日米関係の実態」は”double containment”(二重封じ込め)構造であるそうです。

     

     

    従って、今まさに日本を「戦争が出来る国」に戻したいという思惑は、米国DSによるものでしょうし、岸田首相が突然の「防衛増税」を表明したのも、恐らくは「彼ら」から日本政府への司令でしょう。

     

     

    ですが、そうした背景があろうとなかろうと、「自衛隊」を「国軍」と明記するべきであるとする「憲法改正」の問題は50年以上前に三島由紀夫が呼びかけた戦後の日本にとって避けて通れない宿題です。

     

     

    日本が「自分の国は自分達で守る」という「当たり前の国」に戻れるのかどうか、自衛隊を日本国や日本国民を守るという使命をもった名誉ある「国軍」と位置付けるかということであって、決して「再び戦争に突き進もう」という話しとは全く別次元のテーマなのです。

     

     

    「憲法9条改正反対」とヒステリックに叫ぶのではなく(これを叫んでいるのは特に、親中勢力である創価公明党と親中共産党ですよ)今こそ、日本人として一人一人が目を覚まして、自分の頭でもっと現実をシュミレーションして考えるべきテーマだといえます。


     

    第二次世界大戦中も戦後の「極東軍事裁判」のときにも、日本は西側諸国の欺瞞性、正義を騙った冷酷非道ぶりをみせつけられたわけです

     

     

    戦後一貫して刷り込まれた、自ら刷り込んできた「自虐史観」から抜け出すことも出来ず、対等の同盟関係でない米国との同盟にどっぷりと頼り続け、国も国民の命も全く守れない売国奴政府の下で、水が次第に煮え湯になっているのに気づかない井戸の中の蛙のように呑気でお人好しの「羊人」ばかりの現代日本。

     

     

    21世紀の今、ロシアが20世紀の日本の様に戦争に追いこまれたその背景こそを冷静に批判する目を持たない国民ばかりで、米国との「日米安保体制下」であること自体が、実は「日本が21世紀の『日清・日露戦争』」という英米による日本を利用した「二重封じ込め」構造の戦争の戦火に次第次第に再び追い込まれかねない危険性を孕んでいると何故思わないのでしょう?

     

     

    醜悪この上ないバイデン民主党率いる米国DSに尻尾を振って、彼らと仲良くしていれば安泰だと思っている自民党の大臣達や、日本列島を虫食い状態にされつつあるのに、むしろそれを歓迎しますといった態度の「グローバリスト」という名の国家観のない亡国政治家には失望と怒りを感じます。

     

     

    ■在日米軍の永続化を事実上決定づけた「改正日米安保条約(新日米安保条約)」

    実は三島由紀夫が自衛隊に「檄文」を託した1970年は1960年に岸信介首相が「新日米安保条約」締結した時から10年目に当たる年でした。

     

     

    この新日米安保条約については「当初の10年の有効期間(固定期間)が経過した後は、日米いずれか一方の意思により、1年間の予告で廃棄できる旨規定していた」そうです。

     

     

    「逆に言えば、そのような意思表示がない限り条約が存続する、いわゆる『自動延長』方式である。」と。

     

     

    本条に基づき、1970年に日米安保条約の効力は延長されて、今日に至っているということのようです。

     

     

    参考:

    日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約及び関係文書・御署名原本・昭和三十五年・第十巻・条約第六号 (archives.go.jp)

     

     

    参考:

    「戦闘作戦行動」について政府統一見解

     

    東京の上空は「横田空域」と呼ばれている。つまり自国の首都の制空権すらないのに「事前協議」とか・・これは実際には「絵空事」でしかないのでは?

     

     横田空域:

    1都9県にまたがる広大な空域。米軍基地は北海道から沖縄まで全国各地にあり 米軍専用基地は81か所あり、未だ占領され続け、これら米軍が管制する領空に侵入するには許可が必要で、 無断侵犯すると撃墜される。そのため、この空域を避けるよう大きく迂回飛行したり、 高度をとっての飛行を余儀なくされている。

     

     

     

    「横田」がある限り、日本は独立国ではありません。

     

    「彼ら」に日本国民の生存権、生殺与奪の権を握られていると言っていいようです。

     

    それから、国民は311の真実を知るべきです。日本は常に「彼ら」から脅迫されています。脅迫に屈していては、彼らの思うつぼです。

     

     

    参考:

    「敵基地攻撃能力を持てば抑止力、は楽観的すぎる」 流通経済大・植村秀樹教授が

    語る戦争への危惧:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

     

     

    「岸田首相の「防衛増税」表明に身内から猛反発 自民会合で「怒号」、閣僚から異例の注文も」(東京新聞 2022年12月9日)

    岸田首相の「防衛増税」表明に身内から猛反発 自民会合で「怒号」、閣僚から異例の注文も:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

     

     

    日本を守ってきた先人達の様に、私たちも未来を担う子供達を守り、大切な伝統文化を守り、国土を守り、誇りある国を次の世代に人々に受け継ぐことが出来るように、今こそ「NO」と声をあげて力を合わせ、「彼ら」に立ち向かうべき時なのではないのでしょうか。

     

     

    こんな悲しい話をききました。学校で、中学生の子供が3回目のワクチンを自ら打ちたいと言った。「合法的な自殺」が出来るからなのだと。子供達が国の未来に絶望しきっているということです!!

     

     

    政府は国民に対して嘘をつき続けていても、インターネットなどで様々な情報を集めることができるから、子供達にはワクチンが毒だととっくにわかっているようです

    よ!!恥ずかしくないのですか?

     

     

    国民を苦しめている人々は恐らく「輪廻転生」「因果応報」を信じない者達であるがゆえに、魂が「どのように生きたか」などを自問自答することもなく、来世を恐れず、国民の信を裏切り続けられるということのようです。