睦仁親王の外祖父中山忠能(ただひさ)の七男で公卿の中山忠光(ただみつ)

嵯峨浩からみて曽祖父にあたる。

 

中山忠光は睦仁親王の生母であった中山慶子の同母弟であり、睦仁親王からみて叔父に当たる人物であったが、長兄で同母兄の中山忠愛の養子となった。

 

 

睦仁親王は5歳まで中山家で育てられており、忠光は最も近しい公家の一人であり、1858年(安政5年)に侍従に任官し、1860年(万延元年)には睦仁親王への伺候を命じられた。

 

1863年(文久3年)2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられた。3月19日、忠光は密かに京都を脱して長州藩に身を投じた。このため3月30日には官位と国事寄人の職を返上。このため長州では森俊斎(秀斎)と改名し、久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加。

 

8月13日に大和行幸の詔(みことのり)が出されると、忠光は「攘夷実行が求められているなか、それに応える行動をせず引き籠もっていることはできない」と言い残して8月14日に家を飛び出した。

 

攘夷先鋒の勅命を奉じる志士達で構成された尊皇攘夷派の武装組織として京都にて「天誅組」を立ち上げ、8月17日の大和国五條代官所に打ち入り(挙兵)後、「八月十八日の政変」によって京都の尊攘過激派は一掃され、幕府により鎮圧を命じられた彦根藩や紀伊藩兵から逆賊として追討される事となる。

 

8月28日には忠能は忠光を義絶し、9月24日、吉野鷲家口で幕府軍による大規模な包囲網に捕捉され、「天誅組」は壊滅した。それでも那須信吾、宍戸弥四郎ら天誅組の志士達の決死の奮闘のおかげで、忠光は奇跡的に幕府軍の包囲網を抜ける事に成功し、大坂へ脱出した後、長州に逃れた。

 

長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、江戸幕府方の密偵に隠れ家を突き止められたため、忠光と侍妾であった現地女性の恩地トミ、長府藩から派遣された従者2人で響灘沿いの山間部の庄屋や寺を転々とする。


その頃トミの妊娠が分かり、実家から母チセを呼び寄せて助けを受けながら、忠光と行動を共にする。

元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、同年11月15日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村(現、下関市)で5人の刺客によって暗殺された。(享年20、満19歳6ヶ月)長府藩では「忠光は発病して投薬の効なく10日後の15日に死亡、綾羅木の丘に埋葬した」と発表。



下関市中山神社

 

死後
墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。明治3年10月5日(1870年10月29日)、毛利敬親・毛利元徳父子の奏請により、忠光は生前の官位を復され、その上で正四位の贈位を受けた。また祭粢料として300両を下賜された。
 

 

中山神社 (下関市) - Wikipedia

 

 

下関市にある中山神社内の愛新覚羅社の由緒書きによると、忠光が長府藩潜伏中に寵愛した侍妾恩地トミは忠光死後に唯一の遺児となる娘・南加(仲子とも)を産む。南加は公家の姫として育てられるために、毛利氏の養女となったあと公家中山家に引き取られ、維新後に嵯峨公勝夫人となった。

 

南加の孫で忠光の曾孫にあたる浩は正親町三条家(嵯峨家)出身で、清朝最後の皇帝でのちに満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ。

 

 

 

 

 

 

■「流転の王妃」嵯峨浩

1914年(大正3年)3月16日、侯爵嵯峨実勝と妻・尚子(9代目浜口吉右衛門の長女)の第一子として東京府で生まれた。

 

嵯峨家は藤原北家閑院流の三条家の分家で、大臣家の家格をもつ。明治17年(1884年)の華族令では家格に基づき公勝に伯爵が叙爵されたが、明治21年(1888年)になって「父・実愛の維新の功績」により公勝は侯爵に陞爵している。

浩が女子学習院を卒業した1936年(昭和11年)当時、日本の陸軍士官学校を卒業して千葉県に住んでいた満州国皇帝溥儀の弟・溥傑と日本人女性との縁談が、関東軍の主導で進められていた。

 

当初溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向を持っていた。しかし日本の皇室典範は、皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満洲国の皇弟といえども日本の皇族との婚姻は制度上認められなかった。

 

そこで祖父(中山南加)が明治天皇の母方従姉妹という皇室との血縁があり、侯爵家の長女で、結婚適齢期で年齢的にも溥傑と釣り合う浩に、白羽の矢が立つことになった。

 

翌1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が駐日満洲国大使館から発表され、同年4月3日には東京の軍人会館(九段南一丁目プロジェクト保存棟(旧九段会館))で結婚式が挙げられた。

 

同年10月、二人は満洲国の首都新京へ渡った。夫婦関係は円満で、翌1938年(昭和13年)には長女・慧生が誕生。翌年、溥傑が東京の駐日満洲国大使館に勤務するため東京に戻り、翌1940年(昭和15年)には次女・嫮生が誕生。嫮生誕生後すぐに満洲へと渡るが、1943年(昭和18年)に溥傑が陸軍大学校に配属されたため、再び東京に戻った。

流転の日々
1944年(昭和19年)12月、学習院初等科に在学していた長女の慧生を日本に残して、新京に戻った。翌1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦によって新京を攻められたため脱出し、終戦を朝鮮との国境近くの大栗子(通化省臨江県)で迎えた。溥傑は溥儀の日本へ亡命する飛行機に同乗、浩は陸路で朝鮮に向かい、そこから海路で日本へ帰国することになった。

しかし、溥儀と溥傑らは途中でソ連軍(赤軍)に拘束され、浩たちのいた大栗子も危険となったため、臨江に逃れた。翌1946年(昭和21年)1月には、八路軍の手によって通化の八路軍公安局に連行され、通化事件に巻き込まれた。同年4月以降、長春(満洲国時代の新京)、吉林、延吉、佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、同年7月に佳木斯で釈放された。

釈放後、同年9月に葫芦島に至り、そこで日本への引揚船を待った。しかし、同地で国民党軍に身柄を拘束され、北京を経由して同年12月に上海へと移された。

 

同月、上海の拘束場所から田中徹雄(旧日本軍の元大尉、のちの山梨県副知事)の助けを得て半ば脱出同然の形で、上海発の最後の引揚船に乗船して、翌1947年(昭和22年)1月に日本に帰国。なお、上記の流転の日々から帰国までの間、次女の嫮生をずっと伴っていた。

引揚げ後
日本に引揚げた後、父・実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。

 

一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。

 

1954年(昭和29年)、長女の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。その手紙に感動した周恩来は、浩・慧生・嫮生と、溥傑との文通を認めた。

1957年(昭和32年)12月10日、学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生、大久保武道とピストル自殺した(天城山心中)。

北京での第二の人生
1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して[4]溥傑と15年ぶりに再会した。

 

この後、浩は溥傑とともに北京に居住。北京に移住後、文化大革命(文革)が始まり、1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われた。

 

文革が下火になって以降、浩は1974年(昭和49年)、1980年(昭和55年)、1982年(昭和57年)、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)の計5回、日本に里帰りしている。

1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去。

 

1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された

溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。

 

浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。

次女の嫮生は日本に留まって日本人(母の実家嵯峨家と親交の深い福永家の次男)と結婚、5人の子をもうけ、2020年(令和2年)現在、兵庫県西宮市に在住する。2013年には父母や自分たち姉妹に関する資料を関西学院大学に寄贈している。

nakayamatadamitsu-kaisetsu.pdf (shimo-kouko.jp)

嵯峨浩 - Wikipedia