ロシアのヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所で亡くなったアレクセイ・ナワリヌイ氏は、元々ウクライナ系ユダヤ人で、ウクライナの現政権とのパイプも太く「文字通りファシスト(ネオナチ)」であり、過激なLGBTを推進したり、若い世代を先鋭化していた人物だったのだそうです。

 

 

「ナワリヌイ氏がチェチェン人、ダルギン人、その他コーカサス諸国のロシア国籍を剥奪したかったこと、そして彼らをゴキブリやハエに例えたことを決して忘れてはならない。(後略)」と

https://x.com/DD_Geopolitics/status/1758497715468775604?s=20

 

彼が演説している広場に集まった黒ずくめの服の若者達が、行進しながらナチス式の挙手をしている動画があります。

 

 

ロシア版の「マイダン革命」を起こそうとしていた

 

 

 

 

 

ドンパチすることだけが侵略ではなく、パペットを使って国を内側から崩していくのも侵略で、その尖兵となっていたのがナワリヌイ」だと、ロシア在住の方が指摘しておられますが、全く同感です。

 

外患誘致罪の法定刑は「死刑」のみで、すなわち裁判で有罪が確定すれば、酌量減軽(刑法第66条)などに該当する事由がない限り、必ず死刑が適用されることになるのは万国共通です。

 

ウクライナで、もし米ネオコンの工作で起こされた「マイダン革命」(2013年11月~)が失敗していたなら、ロシア系ウクライナ市民虐殺事件である「オデッサの悲劇」(2014年2月)も、東部のロシア系住民に対する虐殺戦争の「ドンバス戦争」(2014年3月~)も、今回の「ウクライナ戦争」(2022年2月~)も恐らく行らなかったでしょう? 

 

 

オウムの教祖の松本智津夫のように、”明々白々な国家転覆のテロ事件”を起こさない限り、その人物を慕う「洗脳されてしまった若い層の支持者ら」がいるため、死刑に出来ないケースが殆どなのかもしれませんが。

 

 

共産主義経済の行き詰まりでソ連が崩壊したとき、ロシアではハイパーインフレが起こり、ルーブルの価値が下落し、その一方で新興のユダヤ系オリガルヒによって天然資源という(それまで国営だった)国富を独占されたことで、多くの国民が貧困層に陥り、ソ連時代どころでない餓死者が多数出て国が崩壊しかかったのだそうです。

 

 

そのオリガルヒ達を追い出して、国民が食べて行ける国家としてロシアを立て直したのがプーチンでした。


 

■ナチスドイツと国をあげて戦って倒したのは唯一、当時のソ連だった

シリアのアサド大統領が第二次世界大戦とナチスの歴史認識を変えてくれます。

 

アサド大統領は、かつてロンドンの大学院に留学し医師になったエリートです。しかし、西側エリートの傀儡となって国政に関わるロンドン留学組と違い、アサド大統領は信念を変えることはありませんでした。 

 

「ナチスを打倒したのはノルマンディー上陸作戦を遂行した西側」というのが一般認識ですが、第二次世界大戦でヨーロッパ最大の犠牲を払い西側諸国をナチスから解放したのはソ連軍です(ロシアでは大祖国戦争と呼ばれます)。

 

(ソ連は)1941年から1945年の4年間で2600万人の戦死者を出しました。80年経った今でもロシアの人口動態に影響を与えているほどです。

 

ところが、ソ連の功績をなかったことにしたい西側エリートは歴史を書き換えようとしています。

 

ウクライナや東欧、バルト半島の衛星国がナチズム打倒を語り継ぐ建造物を壊し、教科書から記載を省き、退役軍人を蔑ろにし、記念日をキャンセルするのはこのためです。

 

欧州議会のフォン・デア・ライエンは完全にデマゴーグに徹しています。 

 

米国は、ソ連が孤軍奮闘していた1941年から1944年夏まで、スターリンの介入要請にも関わらずナチスを放置していました。

 

ソ連とナチスを戦わせ漁夫の利(ヨーロッパ)を得ることが目的です。

 

ところがソ連の勝利が近づくと、ソ連が東欧やドイツへ進出することを阻止するために参戦、ナチスの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判では戦勝国として自国に都合のよいダブルスタンダードを用い、米国に協力したナチスを放免、戦後の世界を支配するために利用しました(日本の極東国際軍事裁判と同じパターン)。

 

ドイツのナチ将校がNATOを創設し、バンデラ主義者などウクライナのナチスも西ドイツや米国でのうのうと余生を送りました。(注)

 

このようなわけでナチズムは今もウクライナ、カナダ、イタリアなど世界中で生き続けているのです。 

 

またアサド大統領は、600万人のユダヤ人のホロコーストについても、これだけの数のユダヤ人が犠牲になったことを証明する資料はないとして疑義を呈しています。

 

この問題がシオニズムや反ユダヤ主義と関連付けて国際社会で政治的に利用されていることは周知の通りです。

https://x.com/jupiter_russia/status/1757139153395871957?s=20

 

 

■NATO軍の創設は元ナチス将校によってなされた

 

・ナチスドイツの軍人アドルフ・ホイジンガ―

戦後1957年から1961年まで西ドイツ軍の司令官を務め、1961年から1964年までNATO軍事委員会の委員長を務めた。

アドルフ・ホイジンガー - Wikipedia

 

・ナチスの軍人ハンス・シュパイデル

1954年から翌年にかけて、NATO加盟交渉で西ドイツ側代表を務め、1955年の西ドイツ再軍備と共に国防省統合軍局長に就任し、ドイツ連邦軍中将、1957年、大将に昇進。1957年から1963年まで、NATOの欧州連合軍中央連合部隊司令官。

ハンス・シュパイデル - Wikipedia

 

・ヨハネス・シュタインホフ

ナチスドイツ空軍としてロシア戦線でⅡ/JG52飛行司令官として戦った人物。戦後ドイツの再軍備のためブランク機関の一員となり、空軍再建の責任者となった。1956年3月まで米国で飛行訓練を受け、帰国後准将に昇進。国防省第6局計画部(のちの空軍参謀部)長となる。空軍参謀次長を務めたのち、ワシントンD.C.のNATO軍事委員会で西ドイツ代表委員となり、1962年、少将に昇進。1963年、アウリッヒの第4航空師団長。1965年、中将に昇進し中欧連合空軍参謀長及び副司令官。1966年に空軍総監に就任。1970年、NATO軍事委員会委員長に選出され、翌年就任。大将に昇進し、3年間同職を務めた。

ヨハネス・シュタインホフ - Wikipedia

 

・ヨハン・フォン・キールマンゼッグ

ナチスドイツ軍の参謀将校、後にドイツ連邦軍の将軍となり、1963年7月5日以来、フランスのフォンテ―ヌブローにある連合国陸軍中央ヨーロッパのNATO最高司令部の中将を務めた。

ヨハン・フォン・キールマンセグ (wikipredia.net)

 

 

■「ビルダーバーグ会議」の創設者も元ナチス

現在でも毎年欧米の要人のみで開かれる「ビルダーバーグ会議」の創設者の一人で、初代議長は元ナチス親衛隊で、オランダのベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルト王配という人物です。

 

 

■ヒトラーが勝利していたら、エドワード8世を傀儡として復権させる予定だった

英国のエドワード8世はドイツ人でナチスの工作員であったウォリス・シンプソン夫人との結婚で退位に追い込まれた。

 

しかし、ヒトラーは英国を降伏させたあとの傀儡政権のトップとしてウィンザー公を国王に復位させるべく、ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将に命じて、リスボン滞在中のウィンザー公爵(エドワード8世)誘拐を企てていた事が、後年明らかになっている。

 

伯父であるエドワード8世とシンプソン夫人に促されて、ナチス式の挙手をしている幼いエリザベス2世の動画。

https://x.com/Andre__Damon/status/1568375393593204741?s=20

 

女王のナチス式敬礼:国家検閲のための歴史修正主義 - World Socialist Web Site (wsws.org)

 

英王室が語らない闇の過去─ヒトラーを支持したエリザベスの伯父とナチスの敬礼をした幼少の女王 | 代々ドイツ人と関係が深かったイギリス王朝 | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

 

 

 

米国やウクライナで組織的に行われている小児の人身売買については一言も発しない

ストルンベルグNATO事務総長が、ロシアにだけは内政干渉して、ロシアにおける「ゼレンスキー=パペットを」を失ったことを嘆いているようです。

 

 

日本も他人ごとではないわけですが。

 

 

(追記)

■アレクセイ・ナワリヌイ(概略)

極右のロシア民族主義者として活動し、2006年には民族主義極右団体による反移民を掲げるデモ行進に中心人物として参加。2007年には極右団体の国家ロシア自由運動を創設、その後、国家ロシア自由運動は2011年に解体。

 

2010年に米国イェール大学から奨学金を貰い、”グローバルリーダー”として同大学のフェロープログラムを受けている。

 

2011年メドベージェフ大統領の時代、下院選挙の不正を訴えて「反政府、反プーチンデモ」を首謀し逮捕された。ロシア国営放送系のメディアは選挙における軽微な違反が幾つかあったことを報道したものの、投票過程における大きな違反は無かったと報道している。

 

ロシアで「アラブの春」を起こすと宣言して度々デモを起こしては逮捕され、拘留される、ということを繰り返した。反政府運動のシンボルとして白いカーネーションやリボンを用い、スローガンは「プーチンなきロシアを」だった。

 

2012年7月に連邦捜査委員会によれば2009年の材木契約における彼の非公式顧問としての役割が捜査対象になって横領罪で逮捕されている(連邦捜査委員会のウェブサイトでは彼が横領目的の犯罪グループを組織していたことが判明したと掲載された)

 

隣国ウクライナで「マイダン革命後」に親ロ政権が倒れた2014年に「進歩党」を結成し、ロシア当局から政党としての認可を受けたが、2021年4月29日に解散を発表。

 

ナワリヌイ氏が2020年8月に旅客機内で容体た急変し、ドイツの病院に移送され命をとりとめた事件に対してプーチン大統領は、ナワリヌイが米国の情報機関から支援を受けていたとして、FSBによる監視を正当なものとし「毒を盛るなら、殺害していただろう」と述べてロシア政府が暗殺を試みたとの疑惑を否定している。

 

帰国後の2021年3月22日、ナワリヌイは詐欺罪や横領罪、法廷侮辱罪で有罪となり懲役9年の刑が言い渡され、22年6月に特別な監視態勢を整備したヴラジーミル州メレホボの刑務所へ移送された後も刑務所内でSNSを使って「反プーチン運動」を呼びかけ続け、23年8月、過激派組織を設立した罪などで新たに懲役19年の判決が言い渡された。

 

23年9月26日に控訴裁判所が判決を不服とする弁護側の異議を退ける決定で判決が確定し、ヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所に収監中だった。

2011年ロシア反政府運動 - Wikipedia

アレクセイ・ナワリヌイ - Wikipedia