「ベアテの贈り物」2004年製作/92分/監督・脚本:藤原智子/企画・製作:映画「ベアテの贈りもの」製作委員会/製作:イメージブレーン(日本映画新社)

 

日本国憲法(1946年11月3日公布)に、第14条「法の下の平等」と第24条「家庭生活における両性の平等」を草案したベアテ・シロタ・ゴードンの功績、それを受けて活動展開を進める日本女性たち、変化する日本社会、そして今後を問うドキュメンタリー。

映画「ベアテの贈りもの The Gift from Beate」公式サイト (beateg.com)

 

 

ベアテ・シロタ・ゴードンという女性は戦後日本で日本国憲法の草案をつくったGHQの民生局のメンバー22人の一人だったそうです。

 

 

当時22歳という若さだった彼女ですが、両親と共に5歳からの少女時代10年間を日本で過ごす間に日・独・米・仏・ロ・ラテン語といった6か国語を習得し、特に日本語が堪能であったこと、その後米国に留学し、CA州サンフランシスコにあるミルズカレッジで人権について学びながら「タイム誌」でアルバイトをしてリサーチ能力を培っていたことなどで、草案を作る際には各国の憲法について書かれた資料を集め、その大量の資料は他の草案作成のメンバーにも重宝がられ、彼女の名は民政局内で有名となり、大きな役割を果たした。

 

 

ベアーテらが「日本国憲法」の起草の際に参考にした各国の憲法条文は、次の通り。

  1. ワイマール憲法・第109条(法律の前の平等)、第119条(婚姻、家庭、母性の保護)、第122条(児童の保護)
  2. アメリカ合衆国憲法・第1修正(信教、言論、出版、集会の自由、請願権)、第19修正(婦人参政権)
  3. フィンランド憲法(養子縁組法)
  4. ソビエト社会主義共和国連邦憲法第10章・第122条(男女平等、女性と母性の保護)

ロシア語も堪能なベアーテがいたために、最終的にはカットされた「土地国有化」の条項がソ連憲法から草案に取り入れられた、と考えられる。

 

 

彼女は「日本国憲法」の草案作成の過程で、他の国にもなかった(合衆国憲法にすらなかった)女性についての人権規定を草案し、現行憲法では第24条第25条第27条などに生かされたそうです。その他、第14条一項(法の下の平等)草案もベアーテが起草している。

 

 

米国に帰国後はジャパン・ソサイエティー、アジア・ソサイエティーで活動しつつも、1990年代半ばまで日本国憲法草案の作成に関わったという事実を伏せておられたそうです。

 

 

■日本で少女時代を過ごし6か国語を習得

彼女はウクライナ系ユダヤ人の両親(オーストリア国籍を取得)のもとに1923年10月オーストリアのウィーンで誕生。

 

 

1929年、5歳の時にピアニストの父レオ・シロタが、東京音楽学校(現 東京芸大)の教授として招聘されたため、両親と共に日本に定住することとなり、少女時代を日本の東京で10年間過ごしたという経歴をもっていました。

 

 

当時、米国発の世界恐慌でヨーロパ経済は不安定で、ドイツを中心にユダヤ人排斥運動が盛んであっため、日本での滞在は当初半年間のはずが、長い定住となったようです。

 

 

シロタ家は東京市(現・東京都)赤坂区(現・港区)檜町十番地の、いわゆる乃木坂近辺に居を構え、ベアーテは9月にはドイツのナショナル・スクール東京大森ドイツ学園に入学。

 

ピアニストであった父レオ・シロタ

シロタ家は社交的な母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰、近衛秀麿(近衛文麿の弟)、画家でロシア文学教師のワルワーラ・ブブノワやその妹でヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロンとなった。

 

 

そのため、ベアテは日常的にドイツ語、日本語、英語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で10年間暮らしたこと、「彼女にはピアノの才能はない」という母の判断で家庭教師について英語とフランス語を学び、ラテン語(ドイツ学園で習得)を含む六か国語を習得。

 

 

 

■両親と日米に離ればなれで太平洋戦争時代を過ごす

1939年5月にベアテがアメリカン・スクール(ドイツ学園から途中で転校)を卒業すると、両親は彼女を日本から比較的近い(近いでしょうかね?)CA州サンフランシスコ近郊オークランドの全寮制の女子大学ミルズ・カレッジMills College)へ留学させることを決め、 両親はベアテを米国に留学させたあと、再び日本に戻ることとなったそうです。

 

 

太平洋戦争の間、両親は日本におり、ベアテは単身米国での学生生活を過ごすという過酷な状態だったようですが、そのことでむしろ彼女はご自身が「愛国者の日本人」となっていることに気付いたと語っておられたそうです。

 

 

勤労女性は貧困階級であることが常識だった当時の米国で、ミルズ・カレッジの学長オーレリア・ヘンリー・ラインハートは、女性の社会への進出と自立を唱える、いわゆる進歩的な女性、フェミニストで、学生には卒業後には就職することを前提としたカリキュラムが組まれ、女子学生に対し職業を持ち政治に参加する必要性を説いた。

 

 

両親の帰国10日後に日本軍は真珠湾攻撃を敢行し両親の住む日本と、ベアーテの住む米国の開戦(いわゆる太平洋戦争)により、これ以後戦争終結までの期間、両親との連絡が途絶えることとなった。


ベアーテは、親からの仕送りがなくなったためサンフランシスコの「CBS リスニング・ポスト(CBS Listening Post)」で、日本からの短波放送の内容を英語に翻訳するアルバイトをして経済的自立を果たす。 この仕事を通じ、ベアーテはそれまで日本語の知識として身につけていなかった文語体と敬語を学び、同時に当時日本からの報道で頻出していた軍事用語を習得。 

 

米国に滞在していた父の弟子から譲り受けた露日辞典を用い、英語からロシア語に訳した軍事用語を、日本語に翻訳するという作業で軍事用語に馴染むという方法を用いた。 日系二世でも聞き取れない用語を聞き取ることができたため、上司の信頼を得、週給も上がった。


戦争のおかげで自活力をつけ、アルバイトで生活を支えながら大学生活を継続。 この間、父からの言いつけ「ピアノだけは毎日弾きなさい」に背き、ピアノは弾かず、好きなダンス、映画、コンサートにも出かけることなく、学業とアルバイトだけの生活を送る。


まもなくアルバイト先の会社が、米国連邦通信委員会(FCC)の外国放送サービス部(Foreign Broadcast Information Service)に改組となり、合衆国政府の管轄下に置かれる。 ベアーテは、このFCCの仕事を通じて日本からの情報を凝視し、両親の消息を探った。FCCが入手する情報から、両親が無事であることや、父が東京音楽学校を罷免された、などの情報を得た。1945年1月、「ヨーロッパで生活する意志もなかったため オーストリア国籍から米国籍を取得。

卒業年を迎えたベアーテはミルズ・カレッジを最優秀(Phi Beta Kappa Society)の成績で卒業。 卒業後、FCCから戦争情報局(USOWI: US Office of War Information)に転職、対日プロパガンダ放送(日本人に降伏を呼びかける放送)の番組台本原稿作成の仕事に従事。 二年足らずのUSOWI勤務の後、退職し、1945年3月に住み慣れたサンフランシスコから叔母(母の妹)の住むNYへ転居。

NYで得た職はタイム誌のリサーチャー(editorial researcher - 記事の素材調査員)で、当時のタイム誌では、記者は全て男性で、記者として女性は採用せずリサーチャーは全員女性、給与も女性の方が低い。 

 

記者はリサーチャーの収集した情報素材で原稿を書き、リサーチャーが原稿の校正を行なうことになっていた。 記事に誤りがあれば、記者(男性)の責任は問われず、リサーチャー(女性)が責任を問われて減俸の対象となった。 「自由」と「民主主義」の先進国だったはずの米国で、女性を差別(性別による職業差別)する現実に直面し、ベアーテは渡米以来、初めての屈辱と挫折感を味わう。 

 

 

とはいえ、タイム誌はリサーチャーとしての訓練を施したため、後の日本国憲法起草の際、ここで培った能力が生きることとなる。

 

 

■両親との再会

日本に残っていたベアテの両親は幸い戦火を逃れて軽井沢の有島武郎の別荘に強制疎開し、食糧事情が深刻な中でも軽井沢の外国人コミュニティの中でどうにか生き延びており、戦争末期に憲兵の尋問を受ける間際に終戦となったことで、ベアテがGHQの民生局のメンバーとして来日後、再会を果たすことが出来たようです。

 

引用元:

ベアテ・シロタ・ゴードン - Wikipedia

 

_pdf (jst.go.jp)

 

 

シロタ家と20世紀 — ジャパン・ソサエティ (japansociety.org)