日本も核武装すべきだと、内外の「愛国保守」と言われる人々の中に声を上げておられる方々がいます。

 

ですか、それは果たして我々日本人がとるべき道なのでしょうか?

 

そもそもが、それを現実にやろうとするとどうなるかということが、近年わかったのではないでしょうか?

 

葭本(よしもと)しげ子さんという一人の女性が、広島原爆の生の体験から23年後の1968年2月に「平和を祈念しながら」孫娘のためにだけ書き残した「原爆の記」という手記がネット上で紹介されていました。

 

この女性は自らが広島原爆で体験したことを記した「原爆の記」を書いた6年後の1974年に他界しておられるそうです。

 

ネット上で記事をみることができますが、ここでもご紹介させて頂きます。

 

しげ子さんの夫は病気で他界しており、3人の子どもを女手一つで育てておられた。その3人のこどもは、長男の孝彦さん、長女の恒子さん(当時16歳)、次女の純子さん(当時14歳)という方々でした。

 

 

1945年当時、長男の孝彦さんは出征しており、2人の娘は広島市立第一高等女学校(市女)に通う女子学生だったそうです。

 

8月6日の朝、長女の恒子さんは、動員先の軍需工場が休みだったため、友だちと遊びに出かけ、14歳だった次女の純子さんは市女の2年生で、空襲に備えて防火帯を作る「建物疎開」という作業に動員されて広島市中心部へ向かっていた。

 

そして午前8時15分に広島市に米軍の原子爆弾「リトルボーイ」が投下された。

 

しげ子さんの手記より 

「台所の窓際で外を眺めていると、ふと赤い落下傘を見たと思ったとたんガラガラドタンバタンと大音響と共に硝子窓は吹き飛び天井は落ち床板もほとんど落ちてしまった。見ると西北の方は真っ赤に燃え続けている。ああ、どうしよう2人の子供はどうしているだろうと思えば、居ても立ってもいられぬ思いどころか気も転倒せんばかりである。正午過ぎ市女の一、二年生は全部似島へ避難させたとの知らせを受けた。姉の方はどうしたろうと案じているところへお友達の1人が『みんな己斐駅でまっていたが葭本さん一人が来られなかったので心配して来てみた』とのこと。私はそれを聞くなり気も狂わんばかりになった」

 

次女の純子さんは、爆心地から僅か500メートルで現在の平和公園(広島・中区)の南側あたりで、建物疎開の作業をしていました。作業に当たっていた市女の1・2年生は541人。全員が死亡しました。純子さんの遺体が、見つかることはありませんでした。

 

長女の恒子さんは、友だちとの待ち合わせ場所に向かう、電車の中で被爆し、気絶していたところを助けられ、翌7日、救護所となっていた小学校に運ばれました。この小学校の近くに住む友人が、恒子さんを見つけて、家で看病していました。

 

しげ子さんの手記より 

「七日も長女の生死が判明しないので、当てもなく探し歩いたがだめだった。出かけようとしているところへ、長女のお友達が、長女がお世話になっていることを知らせてくださった。私は天にものぼる気持ちで、午後4時頃お友達と一緒にお宅へ急いだ。長女は皆様のお陰で、どうやら生きていてくれた。死んだと思っていた私を見て、涙をボロボロこぼして抱き合って泣いた。やけども大したこともなく、熱も下がり食欲も出たら元気になるだろうとホッとした。『妹はどうした』と聞いたので『どうもだめらしい』というと『あんなにかしこい子だったのに私が変わってやればよかった』と泣きじゃくった」

 

恒子さんに、大きなけがはありませんでした。しかし放射線の影響か、高熱や嘔吐、下痢に苦しめられていました。何か少しでも食べさせようと、重湯を少しずつスプーンで口に注いでいきましたが、飲み込むことはできませんでした。血を吐くこともあったといいます。恒子さんは、うわごとを言うようになり、「家に帰りたい」と繰り返していたといいます。

 

しげ子さんは、借りてきた大八車に恒子さんを乗せ、自宅へ連れて帰ることにしました。「苦しい、苦しい」という娘を、「もう少しだから我慢してね」となだめながら家路を急ぎました。しげ子さんは数日間、ほとんど寝ていなかったため、倒れそうになりながら、疲れた足を引きずり自宅を目指しました。

 

しげ子さんの手記より

ようやく空家同然の目茶苦茶に壊れた我が家にたどりついた。ご近所の方達に手伝ってもらって落ち込んだ座敷の片隅に寝かせた。とても苦しそうで見ていられなかった。大八車を返さなくてはならないので『お母さん、お母さん』という娘を一人残して、隣組の方に頼みに行って帰るとすぐ『お母さん』と云ったきり息を引き取ってしまった。丁度六日の原爆にあった同時刻であった。私は余りのショックでしばらくは涙も出なかった。あゝ2人の子供は遂に死んでしまった」

 

恒子さんは、原爆投下から5日後、息を引き取りました。

まだ16歳でした。

 

しげ子さんの手記より 

「十一日午前八時すぎ死亡したので当時専売局に暁部隊があったので、隣組の青年達が担架に乗せて連れて行ってくださった。兵隊さんが二、三人、大きな丸太棒をつみ重ねた上に死体を置き、私に『火をつけよ』と云われた。一瞬私は茫然自失の有様になった。皆さんは待っていらっしゃるし、兵隊さんにはせかされ、せっぱつまって涙ながら心で詫びながら火をつけた。私はとてもじっとしていることは出来なかった。合わす手もガタガタふるえ、涙は滂沱(ぼうだ)と流れた。サヨーナラ、サヨーナラ。どうぞ安らかに眠ってください。余りにもむごたらしくて、ふり向く気にはどうしてもなれなかった」

 

2人の娘を失い、しげ子さんは失意の底にいました。それでも、出征した長男の孝彦さんが、元気に生きてくれていることが分かりました。「何十日ぶりかに生き返った気持ちになった」。しげ子さんは、その時の心情をこう綴っています。そして月日は流れ、孫が生まれました。しげ子さんの手記は、こう締めくくられています。

 

しげ子さんの手記より 

「かくて星うつり年かわりて長男もやっと結婚した。やがて次女によく似た赤ちゃんが生まれた。名付けて明子‼ 私はこの孫が生まれた日から1日もかかさず神仏に元気でかしこく育ちますよう祈らぬ日とてはない。戦争なんて、もうもうこりごりだ。何時までも何時までも平和でありますよう祈りつつ鉛筆をおきます」

引用元:

最愛の娘に火をつけて… 涙ながらに心で詫びた「あまりにむごい」娘2人を奪われた母親がつづった慟哭 (msn.com)

 

 

 

もし日本が1945年8月当時、今の北朝鮮のように、大陸間弾道ミサイルと核弾頭をもっていたなら、こうした悲劇は防げたのかもしれません。

 

それは一つの意見であり、そう考える人々の手によって、世界には2022年現在で9の核保有国(米英仏ロ中印、パキスタン、イスラエル、北朝鮮)が生まれ、3つの国々(イラン、シリア、ミャンマー)が核開発疑惑国といわれているようです。

 

ですが、他の国が出来ず、唯一日本だけが出来ることは、「原爆の記」のような、被爆地の当時の人々の生の体験を世界中に広めることでしょうし、それを祈念しながら、つらい思い出を記憶から絞り出すように書かれたれたのがこのような手記だったはずです。

 

我々人類が目指すべきは「核爆弾のない世界」であり、日本はその先頭に立つ資格のある唯一の国です。

 

それが出来ないのは、日本が米DSの占領下にあるからです。独立国家ではないからです。

 

日本人は占領下で長い間米DSの監修の下で「自虐史観」を刷り込まれ「洗脳」され続けてきました。

 

 

アジア諸国からみた第二次世界大戦の真実は真逆のようです。

 

「日本はアジアのお母さんなのだ」と、タイの国王が第二次世界大戦後に語ってくださっていたそうです。

アジアの証言  | 正しい日本の歴史 | 正しい歴史認識 (amjt.net)

 

 

「無知は罪」(内藤晴輔氏)

・ウクライナに送った募金40億円は1円もとどいていない。全て(NATO軍の)武器弾薬の代金になった。つまり、いいことをしているのでなく、戦争被害者を痛めつけるために使われただけ。

 

・台湾有事なども起こるはずがないのだそうです。(日本に防衛予算を増額させ、米国製の型落ちの武器を代金先払いで出させるため?「台湾有事」よりも、起こりそうなのは「朝鮮半島有事」なのだと、例えば同様のことを馬渕睦夫先生なども指摘されています)

 

G7の日本以外の6カ国はLGBT法案を検討することも法案をつくることも何もしていない。(岸田首相肝いりで法案可決されてしまいました)

 

・世界の戦争屋、ネオコン、「悪(わる)」が全て、日本に逃げ込んで来ている(彼らは世界の何処にも行くところがなくなったため)と指摘されています。

 

(ゼレンスキーの妻はイスラエルのパスポートをとってイスラエルに逃げ込もうとしているが、イスラエルは既に終わっており、逃げ込める場所ではない)


 

引用元:

 

我々はまず、真の独立を取り戻すため、「精神武装をすべき」であり、それは「日本人としての誇り」を取り戻すこと。

 

 

世界の邪悪な裏側の実像から顔をそむけずに、恐るべきその正体をみつめること。

 

 

それは残酷で悲惨な世界の現実を知るということであり、とてもつらいことですが、やはり今こそ我々日本人にとって是非とも必要なことだと思います。