1603年3月24日以来、イングランドとスコットランドは同君連合で、1707年5月1日にイングランド王国とスコットランド王国が合同法(注)によって政治的に統合され、グレートブリテンが成立(初代国王はスチュアート朝のアン女王)。
今回ご即位なさったチャールズ国王(チャールズ3世)はグレートブリテン王国の13人目の国王となるようです。
(注)合同法
参考:
1801年1月1日にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合併しグレートブリテンおよびアイルランド連合王国が誕生。
1920年代の南アイルランドの分離により、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国になった。
英国史の概略をみてみることに。
■古代
グレートブリテン島にはBC9世紀~BC5世紀頃にかけ、ケルト系民族が侵入して鉄器時代が始まり、ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立。
参考:
鉄器時代のケルトの銀器(現在はデンマーク国立博物館所蔵)
■ローマ帝国時代
BC55年ローマのユリウス・カエサルがグレートブリテン島に侵入。
AD43年ローマ皇帝クラウディウスがブリテン島の大部分を征服。ローマ帝国時代のブリタニアはケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨。
参考:
ブリタニア - Wikipedia
ローマの支配はブリテン島北部のスコットランドとアイルランド島には浸透せず、ケルト系住民の部族社会が続き、5世紀になり、西ローマ帝国がゲルマン系諸集団の侵入で混乱するとローマ人はブリタニアを放棄。
ローマの軍団が去ったブリタニアはゲルマン人の侵入にさらされることになっていく。
■中世
ゲルマン人のアングロ・サクソン諸部族がブリタニアに侵入し、グレート・ブリテン島南東部を征服。この結果、この地域には後世アングロサクソン七王国と呼ばれるようになる小国家群が成立。
参考:
5-7世紀
ブリテン島南部のピクト人はアングロ・サクソンによって吸収・消滅。このブリテン島南部の小国家割拠状態の中から次第にイングランド地方が形成。イングランドの名称はアングロ・サクソン諸部族の中のアングル人に由来。
ウェールズにはゲルマンは浸透せず、ローマから取り残されたケルト系の住民が中世的世界に入った。
スコットランドとアイルランドもゲルマンに征服されることなく、ケルト系部族国家が継続。それぞれの地域はこの頃から次第に独自の歴史性をもって分離。
イングランドの歴史
イングランドの歴史 - Wikipedia
ウェールズの歴史
スコットランドの歴史
アイルランドの歴史
■ノルマン・コンクエスト
11世紀にノルマンディー公ギヨーム2世によって行われたウェセックス朝イングランド王国に対する軍事遠征である。
「ヘイスティングズの戦い」(1066年)
1066年、フランス王国の諸侯であったノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム)がアングロサクソン人王の支配下にあったイングランド王国のハロルド2世の軍を破りグレートブリテン島全体を征服し、ウィリアム1世として国王に即位。
「征服王」(the Conqueror)と呼ばれるウィリアムがノルマン人の後裔だったためノルマン王朝と呼ばれる。
■英国国教会の確立
テューダー朝時代
イングランドの宗教改革はヘンリー8世(エリザベス1世の父王)の離婚問題という全く非宗教的な理由で始まった。これによって成立したイングランド国教会はイングランドでの王権の強化を図る一助となった。
その後カトリックのリバイバルが試みられるもののエリザベス1世の統治に及び、国教会の優位は確定的となった。
スコットランドには16世紀になってカルヴァン派が持ち込まれた。スコットランドでの宗教改革は貴族や王の権力を押さえ込むことが目標の一つであったので、イングランドにおけるそれは全く異なった方向性を示すことになった。
アイルランドはカトリック世界に残留することになった。このため宗教的にはフランスやスペインと近しい関係になることになった。
1536年にヘンリー8世はアイルランドへの再侵入を試みた。アイルランドはイングランド王位僭称者ランバート・シムネルを担いで反抗。このため、ヘンリー8世は相当の危機感を持ち、アイルランドの植民地化を決意。1541年ヘンリーは在地貴族の支持を得られないまま、従来の「アイルランド卿」に代えて「アイルランド王」を自称。
この後もアイルランドへの出兵は断続的に継続されジェームズ1世の統治下でアイルランド全島の支配が確立。
アイルランドでは宗教改革でもカトリックを守り通したため、プロテスタントに切り替わったイングランドとの間で宗教的な差異性が存在。イングランドは支配層であるイングランド人の優位性を確定させるためにカトリック刑罰法を規定しカトリックの元支配層の失落とカトリックに対する差別が画策されることになった
■王朝の変遷
1066年のノルマン・コンクエスト以来現在まで、ブリテン島の王朝はノルマン朝、プランタジネット朝、テューダー朝、(共和国時代を経て、王政復古で)ステュアート朝、ハノーヴァー朝、サクス=コーブルグ=ゴーダー朝(1901年、ビクトリア女王とザクセン=コーブルグ=ゴーダー公子アルバートの嫡男であるエドワード7世の王位継承により、ハノーヴァー朝を英国の君主に引き継ぎ、1917年、第一次世界大戦中のグレートブリテン及びアイルランドでの反ドイツ国民感情により現在のウィンザー朝に改名)ウィンザー朝となった。
エリザベス2世女王の戴冠式(26歳で即位、1953年6月2日の戴冠式のときは27歳)
英国女王に即位した際、エリザベス2世は英連邦に加盟する独立国家7か国、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(英国)、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、パキスタン、セイロンの女王(国王)として即位。
連合王国女王のレルムに属する国家および領土の数は1956年~1992年までに独立あるいは共和制への移行により少しずつ減少し、例えば、1956年3月23日には共和制移行によってパキスタン王の称号を失った。
参考:
93歳のエリザベス女王 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
因みに70年前のエリザベス2世の戴冠式の際に日本の皇室からご出席されたのは、当時19歳の皇太子明仁さま(現上皇陛下)だったそうです。
戦後の皇室の国際親善、始まりは英女王の戴冠式から 上皇さま19歳 (msn.com)
■ウィンザー朝5人目の国王として即位したチャールズ国王の戴冠式
2023年5月6日に70年振りの英国の新国王の即位の儀式として、ロンドンのウェスタミンスター寺院でチャールズ3世国王の戴冠式が行われ、日本からは秋篠宮皇嗣殿下ご夫妻がご参列。
最前列から7列目までのブロックは英国及び英連邦王国(Commonwealth realm、コモンウェルス・レルム)からの出席者や、海外の国王など元首クラスの方々のブロック。
次のブロックが秋篠宮ご夫妻など、デンマークやノルウェイの皇太子夫妻が座るブロックで、ご夫妻はこのブロックの最前列の席。
戴冠式に先立ち、前夜にバッキンガム宮殿で行われたレセプションの際にも秋篠宮ご夫妻はご参加。
チャールズ国王への祝辞と天皇陛下からの祝意のメッセージをお伝えになられたそうです。
バッキンガム宮殿での戴冠式レセプション|ロイヤルウォッチャー (royalwatcherblog.com)
海外から出席された方々:
秋篠宮ご夫妻▽フィリップ国王夫妻(ベルギー)▽カール16世グスタフ国王(スウェーデン)▽フェリペ6世国王夫妻(スペイン)▽ウィレムアレクサンダー国王夫妻(オランダ)▽アルベール2世公夫妻(モナコ)▽アブドラ国王夫妻(ヨルダン)▽ワンチュク国王夫妻(ブータン)▽ワチラロンコン国王夫妻(タイ)▽ジル・バイデン大統領夫人(米国)▽トルドー首相(カナダ)▽アルバニージー首相(オーストラリア)▽ヒプキンス首相(ニュージーランド)▽韓正国家副主席(中国)▽オレナ・ゼレンスキー大統領夫人(ウクライナ)
英国王戴冠式の主な参列者 | 千葉日報オンライン (chibanippo.co.jp)
余談ですが、大統領制の米国では時の国家元首は大統領であり、招待状をもらったバイデン(仮)大統領(仮)の名代という形で、ファーストレディ(仮)のジル・バイデン夫人(ご本人の好みで、Dr.Jillと呼ばれているそうです)のみで参列。
ファミリーのウクライナでの孤児院や障害者施設の子供の人身売買など、どす黒い致命的な汚職についての報告書が米国下院共和党監視委員会が入手されており、英国の古いメディアであるTHE SPECTATORなどでも報じていたそうです。
バイデン一族のウクライナでの小児の人身売買の証拠を米下院共和党調査委員会が入手 | eternalturquoiseblue(旧kamakuraboy) (ameblo.jp)
このような事実が白日の下となった影響のためなのか、ジルバイデン夫人の座席の位置は写真のように極めて冷遇されていたようです。
最後列左からフィネガ・バイデン(バイデンの孫娘)、ジル・バイデン、ゼレンスキー夫人(ウクライナ)オレナ・ゼレンスカという順番のようです。
おまけ:
一方、同じ頃、トランプ大統領(母方がスコットランド出身)はスコットランドとアイルランドにあるご自身所有のゴルフリゾートを訪問なさったそうですが、英王室御用達の数人のバグパイパーらによる温かい歓迎で迎えられたのだそうです。
スコットランドで温かい歓迎を受けるトランプ大統領pic.twitter.com/13GUcVULZT
— いけ@永遠にトランプ応援 (@ikeTrump555) May 1, 2023
招待されたバイデン(仮)大統領(仮)が欠席したことを「非礼だ」と指摘されておられたトランプ大統領ですから、古くから同君連合国であったスコットランドを戴冠式の日に訪問なさることで、ご自身が本当の米国を代表する方として、表向きは祝意を表されたのかもしれません。
追記:
1997年の住民投票の結果、99年にスコットランド議会と自治政府が設立され、そのスコットランド議会の首相が、今年の10月に再びスコットランドの独立について住民投票を行うことを表明しておられるそうですが、それに賛成し協力する意向を伝える目的だったのかもかもしれませんね。
ドナルド・トランプが短いゴルフ旅行のためにスコットランドに到着|ロイター (reuters.com)
スコットランド独立の住民投票、来秋に再実施の意向 自治政府が表明 - BBCニュース