ロシア軍によるウクライナ侵攻が起こってしまった背景に、世界史的みれば2つのキーワードがあるように思います。
一つは「キエフ・ルーシ」、もう一つは「ユダヤ」です。
「キエフ・ルーシ」というのは、ロシアやウクライナの人々にとって共通の祖先を表す言葉で、キエフは、両者の始祖国である「キエフ大公国」があった場所なのです。
もう一つの「ユダヤ」というキーワードには実は複雑な背景があります。
以前拙ブログでもご紹介したように、
2010年当時の世界のユダヤ人の分布を調べた資料によれば、
イスラエルに住むユダヤ人が約570万人、
米国に住むユダヤ人が527,5万人(米国内の人口比の1.71%)
つまり、この2国の合計が世界のユダヤ人総人口1,358万人の81%であり、
残りの19%が他の国に散っているという状況。
そして、
ウクライナの7.2万人でウクライナ人口の0.16%、
ロシア20.5万人でロシア人口の0.14%
という具合に、実はロシアやウクライナ両国のユダヤ人人口は合計しても27万人で、ユダヤ人世界人口(1358万人)全体の2%程度に過ぎません。
これは、1989年から現在までに、150万人以上のユダヤ系市民とその家族が旧ソ連諸国を後にし、そのうち約 100万人がイスラエルを居住先に選んだため、といわれています。
ですが、このウクライナはユダヤ人にとってとても重要な場所のようです。
■帝政ロシア時代のユダヤ人
「屋根の上のバイオリン弾き」の原作者はショーレム・アレイヘムというウクライナ出身の「イディッシュ」(注)劇作家で、キエフ近郊のペレヤスラウという都市で生まれ、1905年に米国に渡った人物です。
ショーレム・アレイヘムとはイディッシュ語で「あなたに平和を」という意味なのだそうで、本名はソロモン・ラビノヴィッツ。
劇作家として、郷土のシュテットルのユダヤ教徒の生活を描いたユーモラスな作品が多く、イディッシュ語の口語性をみごとに活かして「ユダヤ教徒の純情」さを描き、同志愛の必要性を促したといわれているそうです。
米国と故郷のウクライナなどに記念碑が建立されているほか、水星のクレーターにも彼の名に因み命名されているのだとか。
「屋根の上のバイオリン弾き」(原題:「牛乳屋のテヴィエ」)は帝政ロシアの時代に、現在のウクライナのアナテフカというシュテッテルに先祖代々暮らす家族を描いた物語で、物語の最後には、「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人への迫害によって、テヴィエ一家は住み慣れた居住地の村を追われ、原作ではイスラエルに帰還する姿が描かれています(ジョゼフ・スタイン脚本のミュージカル版ではNYに移住するという設定に変更)
ロシア国内のユダヤ人への排斥はロシア語で「破壊・破滅」を意味する「ポグロム」と呼ばれています。
ユダヤ人排斥は第二次世界大戦以前のヨーロッパ各地にみられた現象だったようですが、ナチス政権下のドイツでは「ジェノサイド」の悲劇にまでエスカレートしてしまったわけです。
(注)「イディッシュ語」
東欧のユダヤ人の間で話されていたドイツ語に近い言葉である。ユダヤ語とも称される。インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派のうち西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語の一つで、世界中で400万人のアシュケナージ系ユダヤ人によって使用されているとあります。
■イスラエル建国
1947年に国連が建国を提案し、翌1948年に独立を宣言して、英委任統治領パレスチナ(1919年⦅実質統治)~1948年)の一部地域に「イスラエル(ヘブライ語で「神の支配」)」という国名でユダヤ人の国として建国。
聖地エルサレムにあった「エルサレム神殿(第二神殿)」を帝政ローマ時代のハドリアヌス帝のローマ軍によって破壊され、その後もローマ軍との戦いに敗れ「エルサレム」が崩壊し、ディアスポラ(離散)が起こってから2000年の時が経っていました。
参考:
■旧ソ連からイスラエルへの「帰還」
ソ連崩壊後の1989年から現在までに、150万人以上のユダヤ系市民とその家族が旧ソ連諸国を後にし、そのうち約100万人がイスラエルを居住先に選んだ。これによってイスラ エルの総人口は15%余りも増加し、現在のイスラエル国民の 5人から6人に1人がロシア語を母語とする、とあります。
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/open/2007/akao.pdf
■帰還法
「帰還法」(英語: The Law of Return、ヘブライ語: חוק השבות)とはイスラエルの法律で、国外のユダヤ教徒がイスラエルにアリーヤー(移民)することを認める法律。
イスラエル独立宣言から約2年後の1950年7月5日に制定され、1954年と1970年に2回改定されており、「ユダヤ人」の定義なども定められています。
1970年に「当時のイスラエルのゴルダ・メイア首相が、「帰還法」第4条に「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者をユダヤ人である」と定義していました。
この改定によって、ユダヤ人の母系子孫以外に、例えば民族としては元々ユダヤ人ではなく他民族であった「ハザール人」の子孫で「アシュケナージ」と呼ばれる白人のユダヤ人なども「ユダヤ人である」と認める枠組みが1970年に改訂された「(改訂)帰還法」だったといえます。
参考:
イスラエル国外にあるユダヤ教最大の聖地「ウマ二」
ウクライナのユダヤ教聖地とされる「ウマ二」にあるウクライナ国立科学アカデミーの樹木園 「ソフィーイウカ公園」
我々が今日よく用いる「ユダヤ人」という言葉は、古代、パレスチナに住んでいた褐色の肌、黒髪のスファラディ系ユダヤ人ではなく、7~10世紀に黒海とカスピ海の間に存在した「ハザール王国」という王がユダヤ教に改宗した国家の末裔で、白人のユダヤ人、即ち「ハザール系ユダヤ人」「アシュケナージ」を指す場合が多いようです。
ウクライナ、ウマニの旧市街図書館
北大スラブ研究センター21世紀COE研究員でユダヤ文化研究、文化人類学の専門家に赤尾光春博士の論文で、「ディアスポラの聖地 ウクライナで復活したユダヤ人巡礼から見えてくるもの」にとても詳しく解説されていますので、その冒頭の文章をご紹介させて頂きます。
ペレストロイカからソ連邦の崩壊へと至る過程において、世界のユダヤ人社会のトポグラ フィーは劇的な変貌を遂げた。
最大の衝撃は、なんといっても旧ソ連諸国から発生した大量移民である。
1989年から現在までに、150万人以上のユダヤ系市民とその家族が旧ソ連諸国を後にし、そのうち約 100万人がイスラエルを居住先に選んだ。
これによってイスラ エルの総人口は 15%余りも増加し、いまやイスラエル国民の 5人から6人に 1人がロシア語を母語とすると言われる。
第二の衝撃は、旧ソ連国内におけるユダヤ文化復興の動きである
第二次世界大戦後、ソ連邦のユダヤ人は、個人としては民族差別を被りながら、集団としては表立った文化活動を禁じられるというジレンマにあって、ソ連社会に「同化」するか、あるいは自らの文化 的アイデンティティを密かに保持するかという選択肢しか残されていなかった。
ところが、 ペレストロイカとともに、事実上消滅して久しかったユダヤ人共同体が次々と復活し、教育、文化、福祉、宗教などの分野の活動が表立って展開できるようになった。
(中略)
■「第三の動き=ウクライナ領内の聖地ウマ二への巡礼」
実はこの論文の中心は、「第三の動きが存在」し、「ハシディズム(ユダヤ教敬虔派)の聖 者廟巡礼の復活に代表される国外から国内へと向かう動き」が起こっているでことに着目して展開されています。
こうした聖者廟は、ウクライナ、ポーランド、ベラルーシ、ルーマニアなど、かつてハシディズムが繁栄を誇っていた東欧の諸地域に点在するが、なかでも、ウクライナ中部の町ウマニ(ウマン)に眠るラビ・ナフマンの墓はイスラエル国外最大のユダヤ教聖地に発展し、ユダヤ暦新年の大 巡礼祭(9月ないし 10月に当たる)の期間だけでも、イスラエルをはじめ 40カ国以上から毎年 1万人以上もの巡礼者が訪れる。
人口10万人にも満たないウクライナの一地方都市が、にわかにユダヤ人の巡礼センター へと変貌した結果、ソ連崩壊後におけるユダヤ・ウクライナ関係の再編過程にも少なから ず影響を与えた。
ことに地域社会へのインパクトは著しく、巡礼がもたらした経済効果に よって、聖地周辺に居住するウクライナ人住民の生活は一変するとともに、住民と巡礼者 との間の軋轢も絶えなくなった。
一方、ユダヤ人巡礼組織が地方行政の意向をしばしば無視する形で聖地開発を押し進めた結果、巡礼は政治問題化し、ウクライナの行政機構によ る度重なる介入を招いた。
引用元:
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/open/2007/akao.pdf
ここで、何故「ウマニ(ウマン)に眠る「ラビ・ナフマンの墓」がイスラエル国外最大のユダヤ教聖地」に発展したのかについては次に譲ることにして一旦切ります。