「毒ワクチン」の接種後死亡者について、ワクチンとの因果関係を評価できずで、たった1例も薬害であると厚労省が認めないのは、認めれば「毒」を「毒」であると認識したことになり、その認識がありながら中止せずにそのまま集団接種を推進してきた関係閣僚、厚労省の予防接種室などは今後殺人罪に問われる可能性があるからなのでしょうね。

 

 

あくまでも、報告されている数字は氷山の一角のようですが・・

 

参考:

ファイザーワクチン令和3年2月17日から令和3年8月20日までに報告された死亡事例、

計1075件(2件の重複を引いた数字)

https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000823368.pdf

モデルナワクチン令和3年5 月 22 日から令和3年8月20日までに報告された死亡事例、

計16件

https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000823369.pdf

 

 

80年代HIVウイルスが混入した非加熱の血液製剤を回収せずに血友病患者に使い続けたことで、薬害エイズ被害が拡大し、その後、関係者である大学教授などが国会で証人喚問を受け、「殺人未遂」の罪で東京地検に告訴されています。

 

 

この大学教授、ミドリ十字の歴代の社長と厚労省の官僚らはその後、業務上過失致死罪で逮捕され、2001年にミドリ十字の歴代社長と厚労省官僚には有罪判決が出ています。

 

 

関係者が「殺人未遂」「業務上過失致死」で告訴されたのも、当時はAIDSといえば、治療薬のない死病として恐れられていたためです。

 

 

現在では治療薬(発症を抑える)があり、HIV感染者は1日1回の服用によって発症を抑えられるようになりましたが、AIDSの原因ウイルスHIVウイルスにひとたび感染してしまうと、このような治療を生涯受け続け、薬を飲み続けなければなりません。

 

 

参考:

 

 

85年に有名映画俳優のロック・ハドソンが亡くなったのもAIDSであったと発表され、これを受けて、俳優仲間のエリザベス・テイラーなどがAIDS撲滅運動を行ったり、1991年にQueenのボーカリストのフレディ・マーキュリーが亡くなったり、AIDSは当時世界中を震撼させていました。

 

表の引用元:

「人類と感染症との闘い」

https://www.eiken.co.jp/uploads/modern_media/literature/MM1409_03.pdf

 

 

私が医学生のM4当時、ベッドサイドで病院で臨床実習のローテーションをしていた頃、大学病院の特殊感染症病棟には2名のAIDS患者が入院していました。

 

 

一人は同性愛者でヒトヒト感染でHIVウイルスに感染、もう一人は血友病患者で、血液製剤からHIVウイルスに感染した薬害AIDS被害者でした。

 

 

ですが、当時は国内のAIDS患者の内、ヒトヒト感染は1%程度であるといわれ「薬害エイズ被害者」がAIDS患者の殆どの割合を占めていたようです。

 

客観的にいえば、日本にAIDSが入ってきた経路の99%は生物化学兵器のような危険な非加熱の血液製剤からであったわけです。

 

 

「薬害被害根絶の碑」(厚生省)は建立されたものの、同様のことが繰り返されます。

 

 

「薬害エイズ」被害が起こってしまった原因

日本には約5000人の血友病患者がいます。血友病とは止血に必要な凝固因子が不足しているため、出血した場合に止まりにくい病気のことで、不足している凝固因子によって、血友病A(第8因子)、血友病B(第9因子)に分類されます。

 


出血した場合の治療として用いられるのが血液製剤です。

 


1970年代末になると国産のクリオ製剤よりも簡便な濃縮凝固因子製剤が登場し、治療に使用されるようになりました。
 

 

しかしこれらの製剤にはウイルスを不活化するための加熱処理はされていませんでした。

 


そしてこの中にあのエイズ原因ウイルス(HIV)が混入していたのです。
 

 

80年代前半、アメリカから輸入された危険な非加熱製剤は、血友病専門医や製薬会社の社員の指導のもと、大量に使用されました。
 

 

しかも加熱製剤の認可後も、危険な非加熱製剤はただちに回収されることなく使用され続けたのです。

 

 

現在では新規のHIVウイルスの新規感染者は薬剤からの感染者はまずありませんが、米国のCDCが血友病患者のAIDS感染者3例を報告したのは1982年だったそうです。

 

 

その翌年1983年に米国で加熱製剤認可され、1983年には国内の血友病患者団体が厚生省に安全な血液製剤供給を要望が出されています。

 

血液製剤から感染した血友病の薬害エイズ患者が帝京大で死亡したのは83年だったのです。

 

 

しかし、その血液製剤つまり、危険性を承知でそれを使用させ続けた、明らかに「確信犯」であったことで安倍英は「殺人未遂」で東京地検に告訴されたわけです。

被害者はいわれなき偏見により差別を受け社会から排除され、さらに感染告知が遅れ、発病予防の治療を受けなかったことに加え、二次・三次感染の悲劇も生まれました。

 

 

こうした状況の中、被害患者とその遺族は1989年東京と大阪の地方裁判所に、非加熱製剤の危険性を認識しながらも、それを認可・販売した厚生省と製薬企業5社を被告とする損害賠償訴訟を起こしました。


裁判では厚生省や製薬企業がひた隠しにしてきた事実が次々に明らかになり、また提訴者も次第に増えていきました。社会からの支援も日増しに大きくなり、『薬害エイズ事件』は一大社会問題に発展していきました。

 


こうして日本国中を巻き込んだ社会の大きなうねりは裁判所も揺り動かし、1996年3月被告が責任を全面的にに認め和解が成立。国は被害者救済を図るため原告らと協議をしながら各種の恒久対策を実現させることを約束しました。


和解成立後、安部英帝京大学教授、ミドリ十字元・前・現社長、松村明仁厚生省生物製剤課長が相次いで逮捕され、薬害エイズ事件に捜査当局のメスが入りました。


「帝京大学ルート」、「ミドリ十字ルート」、「厚生省ルート」の3ルートの刑事裁判が始まり、真相究明がより進むことが期待されます。


また薬害エイズ事件の反省から、1999年8月には厚生労働省内に薬害根絶『誓いの碑』が建立。

薬害エイズ事件年表

1982年7月16日  米国のCDC、血友病患者の感染者3例報告
1983年3月21日  米国で加熱製剤認可
1983年9月22日  血友病患者団体が厚生省に安全な血液製剤供給を要望
1983年6月13日  「厚生省エイズ実態把握に関する研究班」(班長安部英帝京大学教授)第1回会議
1983年6月27日  ストックホルムで第15回世界血友病連盟(WFH)国際会議で治療方法に変更なしの方針打ち出される
1983年7月5日  帝京大症例患者死亡(日本初の薬害エイズ被害者)の報告
1985年7月1日  第8因子製剤の加熱処理製剤の一括承認。安部英の治験調整疑惑
1986年  エイズ予防法制定に向けて、行政・報道によってエイズパニックが作り出される
1988年10月27日  エイズ予防法可決
1988年11月6日  「HIV薬害被害者の会」結成。国、製薬5社に対する賠償責任を問う
1988年12月23日  エイズ予防法成立

 

 

1988年~2019年まで30年間、被害者団体による告訴と裁判が展開し、長い時間をかけ、調査が行われ、多くの裁判が繰り返されました。

 

 

■断罪されたミドリ十字の歴代の社長と厚労省官僚

薬害エイズ事件では、不作為によって危険な血液製剤を回収するよう助言を行わず、薬害被害を拡大させてしまった帝京大安部英教授は94年に「殺人未遂」で東京地検に告訴されています。

 

 

96年2月厚生省(当時)が非加熱製剤の危険性を知っていたことを示すファイルが発見され菅直人厚生相(当時)が原告患者らに謝罪。

 

 

同年7月に衆議院厚生委員会証人喚問(帝京大教授安部英、東大教授郡司篤晃、順天堂大学塩川優教授)

 

 

業務上過失致死罪で同年8月に安倍英教授逮捕、9月にミドリ十字元・前・現社長逮捕、10月に松村明仁厚生省元生物製剤課長がそれぞれ逮捕されています。

 

 

2000年2月24日ミドリ十字歴代三社長に禁錮2年~1年4ヶ月の実刑判決、2001年3月28日  安部英被告に無罪判決、2001年9月28日  松村明仁被告に禁錮1年、執行猶予2年の有罪判決が下されているようです。

 

 

今回の「毒ワクチン」は多くの健康人への(職域接種など)半ば強制に近い集団接種の勧奨で数千人以上(10万人とも?)の死者を出していますから、罪に問われれば、関係者は全員有罪でしょうし、死刑に相当する罪の重さでしょう。

 

 

河野太郎大臣は自覚しているのでしょうか。

 

引用元:

 

 

 

 

 

参考:

「薬害エイズ問題と官僚機構」

https://core.ac.uk/download/pdf/235020495.pdf

 

AIDSの原因ウイルスHIVは当初HTLV-3とも呼ばれるほど構造に類似性があるそうです。

 

AIDS「発生歴史物語」は読めば読むほど矛盾だらけで、要するにそういうことらしい。

 

フレディ・マーキュリーに関して:

https://www.musiclifeclub.com/news/20180517_03.html

 

ロック・ハドソンの死を受け、AIDS撲滅運動などに尽力