ワシントン記念塔:

ナショナル・モールの中心にそびえ立つ、巨大な白色のオベリスク、高さ169m。1776年の独立戦争時に、米国大陸軍を率いて英国軍との戦いを勝利へと導いた合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの名誉ある功績を称えて建造された、大統領記念碑の一つとされる。

 

 

 

ワシントンDCが今、大変な注目を集めています。

 

 

 

実はワシントンDCは1801年から220年間、アメリカ合衆国の中で特殊な地域となっているという我々日本人には馴染みの薄い事情があるようです。

 

 

ワシントンD.C(コロンビア特別区.)は連邦政府の所在地であるものの、米国50州のどの州にも属していません。この地域には70万人以上の人々が暮らしているが、この人々にはある意味で公民権がないという特殊な場所のようです。

 

 

ワシントンD.C.の住民には、他の米国民が享受する自治権と選挙権がない

ワシントンD.C.の条例はいまだに連邦議会による審査の対象であり、議決権のない下院議員は選出できるものの、連邦議会議員選の選挙権は認められていない。コロンビア特別区を51番目の州とする圧力は増しているが、今日に至るまで、住民の権利は奪われ続けている。

とあります。

 

 

ホワイトハウス

 

連邦議会議事堂

 

連邦最高裁判所

 

ワシントンDC(コロンビア特別区)はアメリカ合衆国の首都で、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する面積177 km²程の小さめの都市。合衆国の三権機関である国会議事堂、ホワイトハウス、最高裁判所などがある。

 

 

ここには住民70万5000人の人々が暮らしており、その人々は米国の法を遵守し、税も払っているにも拘らず、1801年2月27日以降、議決権のある代表を連邦議会に送れず、事実上選挙権という公民権がない

 

 

 

「様々な世論調査によれば、米国人の61%ないし82%が、D.C.は連邦議会での投票権付き代表を認められるべきだと考えているにもかかわらず、DCに投票権付き代表を与えようとする試みは成功していない」とあります。

 

 

 

■合衆国憲法修正第23条

1961年3月29日に批准。ワシントンD.C.の住人は大統領と副大統領を選ぶ選挙人を選出する権利を与えられた。この修正条項では、大統領と副大統領の選出に関連する全ての目的で、コロンビア特別区は州と同じように扱われるとされた。具体的には、州であれば認められる数の選挙人を選出できるが、最も人口の少ない州の選挙人数を超えることはできないとされた。しかし、最も人口の少ない州の選挙人数は3人なので、3人を超えることはできない。

 

 

現実的には「ワシントンDC」は51番目の州にはなっておらずいまだかつて大統領選に選挙人を送りだしたことはない、というのが事実らしい。

 

 

なぜ、この地域はこのように特殊な場所になっているのか?

 

 

 

まず、ワシントンDCが首都と定められた背景をみてみることに。

■首都立地法

ワシントンDCについて、建国の時代にまでさかのぼる。米独立戦争中、各植民地の代表が集まる大陸会議には、恒久的な所在地がなかった。米国憲法を制定する際、恒久的な首都をどこに定めるか、建国者たちは言い争っていた。だが、一点において、確かな合意があった。1783年6月の事件を繰り返したくなかったのだ。酔っ払った兵士の集団が、給料の未払いに怒り、フィラデルフィアにある州議会議事堂に押し寄せた。地方当局がその対処に失敗し、暴徒は連邦議会を町から追い出した。

このような惨事の再発を防ぎ、政府所在地に対して新国家の支配を確立するため、政治家たちは連邦直轄の都市というアイデアに同意した。米国憲法第1条第8節第17項において、10平方マイル(約26平方キロ)を超えない政府の所在地に対し、立法権を行使する権限を連邦議会に与えたのだ。だが、どこを首都にすべきか、誰が得をするのかをめぐり、論争が繰り広げられた。

 

北部の州は、首都を北部に置き、独立戦争による負債を連邦政府に肩代わりさせたいと考えていた。しかし、すでに借金の多くを返済していた南部の州は、これに反対した。この問題により連邦議会は膠着状態に陥り、激しい論争が巻き起こった。当時の国務長官トーマス・ジェファーソンは、南部バージニア州の下院議員ジェームズ・マディソンと北部の側に付いていた財務長官アレクサンダー・ハミルトンを呼び、転換点となる夕食会を開いた。

 

その夕食会で、後に1790年妥協と呼ばれる取引が行われた。首都を南部のポトマック川沿いに置く代わりに、独立戦争時の北部の債務を連邦政府が肩代わりするのを妨害しないことに、マディソンが同意したのである。

 

その結果、首都立地法が制定され、後にワシントンD.C.となる地に恒久的な首都を定めた。また、同法により、初代米大統領のジョージ・ワシントンに、その場所を選択する権限が与えられた。ワシントンはジョージタウンに隣接する地域を選択し、メリーランド州とバージニア州はその土地を連邦政府に譲渡した。こうして1801年2月、連邦議会が管轄権を譲り受けた。

 

しかしながら、この「首都立地法」で「連邦政府の管轄地になった」ということだけで、ワシントンDCの住民に連邦議会議員選の選挙権がないことの説明となるのでしょうか。

 

 

繰り返しになりますが、「様々な世論調査によれば、米国人の61%ないし82%が、D.C.は連邦議会での投票権付き代表を認められるべきだと考えている、しかし未だにDCに投票権付き代表を与えようとする試みは成功していない」ということで、成功していない理由が何であるのかこそが核心部分のように思えます。

 

 

実はその答えを知ろうと思えば、ワシントンDCの歴史的な変遷として、1812年の米英戦争(第二次独立戦争とも)に遡る必要がありそうです。

 

 

■1812年の米英戦争(第二次独立戦争ともいわれる 英語 War of 1812

 

1812年6月から1815年2月までの期間に英国とその植民地カナダ及び英国と同盟を結んだインディアン諸部族 vs とのアメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争。

 

米東海岸、米南部、大西洋、エリー湖及びオンタリオ湖の領土を奪い合った。

 

両陣営がインディアンに代理戦争をさせたため、北米植民地戦争でもあり、インディアン戦争でもある。

 

 

 

■1812年の米英戦争の背景

第一に、米英が奪い合おうとした土地が、そもそも古くからインディアンの住む土地であった(インディアン諸部族は生存のために米英と闘わなければならなかった)こと。

 

第二にヨーロッパではナポレオン戦争のさなか、米国は中立を宣言するも英仏の海上封鎖によって経済的に大打撃を受けもたこと、英国による米船に対する臨検活動などからも反英感情が高まったこと。

 

第三にアメリカ国内において、入植白人はインディアンの土地を狙っていたが、激しく抵抗するインディアンたちの背後で英国が扇動していると考えていた。そのため反英感情が高まり、根本的解決のためには英国と戦争するしかないと考えられたこと。この戦争においてインディアン達は米国の侵略活動による西進を防ぐ為、英国と手を組んだ。

 

第四にナポレオン戦争に関わっていた英国には新大陸に戦力を向ける余裕が無く、米国はその隙を狙ってカナダを英国から奪おうと考えていたなども指摘されている。

 

第五に、第四の理由から米国の指導者達は戦争はすぐに終わると楽観していた、などが挙げられています。

 

 

1812年6月、米議会は英国に対して宣戦を布告。

 

 

(歴史の裏側の事情)

1806年ナポレオンは大陸封鎖令を出し、同盟国に英国製品の不買を強制。米商船は中立国の立場を利用して、引き続き英仏双方のカリブ海植民地と貿易を行っていた。大陸諸国では英国や英植民地からの輸入に頼っていた綿製品、毛糸、煙草、コーヒー、砂糖、染料などが不足して、これらの商品の価格が高騰。 一方、英国では、これらの商品が大してさばけない為、これらの商品の価格が暴落。ネイサン・ロスチャイルドはただのような金額でこれらの商品を買い叩き、フランスのロスチャイルド家が高値で販売し、莫大な利益をあげた

 

「中立」を表明していた米国だったのだが、フランスとの接触をおそれた英国は、海上封鎖で米合衆国とヨーロッパ諸国との通商ルートを妨害。フランスは、英国向けの米船を拿捕し、英国はそれに対抗してヨーロッパ大陸及びフランス植民地への米船の入港を妨害。実際にはフランス海軍は制海権がないので米船にとって脅威ではなかったが、英海軍は大西洋の制海権を握っていたので、米国の貿易と海運業にとって打撃となった。更に、公海上で英船が米船を襲い、英国生まれの船員を連れ去って海軍に強制的に編入するようになり、両国の関係は一層悪化。英仏相互の私掠船による米国船の拿捕合戦となった海上封鎖は、米国に経済的損失をもたらすのに比例して、米国民の反英感情の高まりと連邦議会における反英タカ派の台頭を招くこととなった。

長くなりましたので、ここでいったん区切ります。

 

 

引用元: