■「約束の地」を目指したロスチャイルド家

「旧約聖書」で神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地(創世記15:18-21)であることから、地中海とヨルダン川、死海に囲まれた「カナン」という地域はユダヤ人にとって「約束の地」(ヘブライ語 הארץ המובטחת‎, 翻字: ha-Aretz ha-Muvtachat: 英語: Promised Land)とされていました。地図でみてみると、「地中海、ヨルダン川、死海で囲まれた地域」というのはちょうど現在の「ヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治区」がある場所のようです。

 

「カナン」という名称の起源は不明で、広義のカナン人とは旧約聖書のノアの孫カナンから生じた民を指しているとされます。

 

イスラエルの建国(1948年5月14日)よりも遡ること約30年前、1917年11月、ユダヤ人コミュニティ、具体的には第2代ロスチャイド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド氏が英国政府に「イスラエル」建国の前段階として、「英国委任統治領パレスチナ」をつくるよう働きかけていました。1917年英国外務大臣アーサー・バルフォアが英国のユダヤ系貴族院議員のロスチャイルドに送った書簡が「バルフォア宣言」(注)と呼ばれる文書です。。

 

 

 

■20世紀初頭のパレスチナ

パレスチナにおいて、16世紀以来この地を治めていたオスマン帝国(1299~1922年)に代わって、第1次世界大戦後1918年に大英帝国の委任統治という占領統治が開始され、1920年から高等弁務官による民政を開始して実質的に植民統治を開始していたとされます。

 

 

香港の英国による統治がアヘン戦争後の「南京条約」で、清から「永久割譲」された1843年から開始したことをみれば比較的新しく、国連からの「委任統治」という形態をとり、そのあとの「イスラエル」建国へと繋がって行きます。

 

 

大英帝国によるパレスチナ統治は後付けで、1922年7月に国際連盟理事会(注)で公式に承認。23年9月26日に発効。これにより、オスマン領シリアの南部(パレスチナ)に1923年から第二次世界大戦後の1948年まで地図のように「約束の地カナン」も含めて、英国委任統治領となったのです。

 

 

英委任統治領パレスチナ(1919年⦅実質統治)~1948年)

 

国際連盟の「パレスチナ委任統治決議」の序文は、英国政府がロスチャイルド卿との間に交わした「バルフォア宣言」の条文を基本的にそのまま使ったものなのだそうです。

 

国際連盟の英国の「委任統治決議」の序文

 

連合国主要国は、委任統治が、1917年11月2日にイギリス国王陛下の政府により発せられ、いわゆる列強が承認した宣言を実行し、ユダヤ人のナショナル・ホーム(民族郷土)をパレスチナに確立することに責任を負うべきであると合意した。

 

また、パレスチナに存在する非ユダヤ人コミュニティーの市民的・宗教的権利を不利にすることや、あらゆる他の国に在住するユダヤ人が享受する権利や政治的地位を不利にすることはなされてはならないと明確に了解された。

 

 

「パレスチナ」とはシリア地方南部を指していたものの、当初はその範囲は確定せず、英国委任統治領メソポタミアという言葉の「メソポタミア」のように、「パレスチナ」という古い呼称を復活させたのは英国の中東専門家マーク・サイクスの方針であった、などとあります。

 

 

「パレスチナ」という古い呼称を敢えて用いることで、現実にそこに居住している現在の住人よりも、古い時代にそこに住んでいたかもしれない人々の子孫をも含めて、「誰の土地なのか」ということが曖昧になってしまう効果を狙ったのかもしれません。

 

 

1922年の国際連盟による承諾によって、英国は委任統治領を2つの地域に分けたそうです。その2つとはヨルダン川をはさんで

 

西側: 英国の直接支配を受け津ヨルダン川より西のパレスチナと、

東側: ヒジャーズ王国の王族ハーシム俗が治めるヨルダン川東部の自治領トランスヨルダン

 

の2地域です。トランスヨルダンの創設は、英国イスラム教徒であるハーシム家との間に約束した1915年の「マクマホン宣言」に基づき、この分割により、バルフォア宣言でパレスチナに創設することを認めたユダヤ人のナショナル・ホーム(民族郷土)の範囲から、トランスヨルダンの部分は除外されることになった。このように分ける必要があったのは、「バルフォア宣言」よりも2年前に、実は英国は「フサイン=マクマホン協定」をハーシム家と交わしていたためのようです。現在のヨルダン王家の始祖となったフサイン・イブン・アリーはメッカのシャリーフで、オスマン帝国からのアラブ独立運動の指導者とされ、英国政府との間で「フサイン=マクマホン協定」を交わした人物です。

 

英国は第一次世界大戦中に戦後の中東問題に対して、以下の三つの協定を結んでいた。それぞれアラブ・フランス・ユダヤに配慮した内容で、「三枚舌外交」ともいわれており、これが今日のパレスチナ問題の火種になったとされています。

 

1915年10月 - フサイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立・公開)(注)
1916年5月 - サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割・秘密協定)
1917年11月 - バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設・公開)(注)

 

これにより第二次世界大戦後のパレスチナ問題や1921年3月の「カイロ会議」では考古学者で英国外務省管轄下のアラブ局のカイロに置かれた諜報機関所属の情報員ガートルード・ベルの意見が採用されて、現在も不自然な国境で分断されているクルド人問題など多くの問題を生じたといわれている。

 

■現在のイスラエル(外務省HPより)

略史

1947年国連総会はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割する決議を採択。

イスラエルは48年独立を宣言。

48年,56年,67年,73年と周辺アラブ諸国と4度にわたり戦争。

その後,79年にエジプトと平和条約を締結。

94年10月ヨルダンと平和条約を締結。

パレスチナ解放機構(PLO)とは,93年9月,相互承認を行い暫定自治原則宣言(オスロ合意)に署名。

その後,暫定合意に従い,西岸・ガザではパレスチナ暫定自治政府による自治が実施。

 

国土面積2.2万平方キロメートル(日本の四国程度)、人口約888万人(2018年6月 イスラエル中央統計局)。民族はユダヤ人(約75%),アラブ人その他(約25%)(2016年9月 イスラエル中央統計局)

 

 

(注)国際連盟理事会:

第1次世界大戦後の1920年に設立され、1946年4月20日に活動が終了した国際機関の主要機関。理事国と非常任理事国とから成り,前者は第1次世界大戦の主要戦勝国である5ヵ国 (実際はアメリカ不参加のため日本,イギリス,フランス,イタリアの4ヵ国) で,1926年にドイツが追加され,34年にはソ連が加盟と同時に加わった。第1次世界大戦の主要戦勝国である5ヵ国 (実際はアメリカ不参加のため日本,イギリス,フランス,イタリアの4ヵ国) で,1926年にドイツが追加され,34年にはソ連が加盟と同時に加わった。

 

 

(注)フサイン=マクマホン協定

メッカの太守であるフサイン・イブン・アリーと英国駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、英国は対トルコ戦協力(アラブ叛乱)を条件にアラブ人居住地の独立支持を約束したとされる。フサイン・イブン・アリーという人物はメッカのシャリーフでオスマン帝国からのアラブ独立運動の指導者で、のちヒジャーズ王国の国王、カリフ。 現在のヨルダン王家の直接の祖とされる。

 

(注)バルフォア宣言:(英:Balfour Declaration)

第一次世界大戦中の1917年11月2日英国の外務大臣アーサー・バルフォアが、英国スのユダヤ系貴族院議員である第2代ロスチャイド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、英国政府のシオニズム支持表明。

 

 

「ヨルダン川によって東西の線引きを厳密に適用すればパレスチナはそもそもアラブ人国家のエリア内に含まれないこと、またサイクス・ピコ協定で規定されたフランス支配地域も、フランス直接統治領に限っていえば(ダマスカス近辺は被るものの)概ねフサイン=マクマホン協定のエリア内に含まれないことから、それぞれの内容は、実はそれほど矛盾していないという見方もあるが、このような英国の秘密外交がシオニストらの反発を買い、パレスチナ問題の要因となった」といわれています。

 

 

マクマホンの第二の手紙(1915年10月24日付)では、以下のようなことが書かれてあったそうです。

「メンフィス地区及びアレクササンドレッタ地区、及びシリアのダマスカス・ホムス・ハマー・アレッポの各地区より西の部分は純粋にアラブ人の地とはいえない。それゆえ、提案される決定からは除かれなければならない。この修正に従い、また我々と特定のアラブ人首長との間で結ばれた諸条約を侵さないような形で、我々はこの決定を受け入れる。提案の境界線の内側にある地域については、英国がその同盟国フランスの権益に損害を与えることなく自由に振舞える地域であり、私は貴殿に対しイ英国政府の名において次の通り誓約を行い、貴殿の書簡に対し次の通り返答する権限を与えられている:上記で述べた修正を条件に、英国はメッカの太守が提案した境界線の内側にあるすべての地域におけるアラブ人の独立を承認し支持する用意がある。」

 


シリアのダマスカス・ホムス・ハマー・アレッポの各地区より西の部分も、シリア北部も、クルド人勢力という米国が支援した軍隊とロシアが支援しているシリア軍との戦いである「シリア内戦」で瓦礫の山となってしまった場所ですね。

 

引用元:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%B3

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%A7%94%E4%BB%BB%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E9%A0%98%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9A%E8%88%8C%E5%A4%96%E4%BA%A4

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E5%AE%A3%E8%A8%80#targetText=%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E5%AE%A3%E8%A8%80%EF%BC%88%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%92%E3%82%93,%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E6%94%AF%E6%8C%81%E8%A1%A8%E6%98%8E%E3%80%82

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%9B%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%AE%9A