亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いという外にない。
これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。
女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどいって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。
ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、氏はこれに答えて“How can I love another Child? What I want is Sonia."といったということがある。
親の愛は実に純粋である、その間一豪も利害得失の念を挟む余地はない。
ただ亡児の俤(おもかげ)を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。
しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。
人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。
時は凡ての傷を癒すというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
西田幾多郎著『思索と体験』(岩波文庫)より
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