通りを駆ける最中(さなか)、ふと奇妙な視線を感じた気がして、俺は周囲を見回した。
「何かありましたか、大護軍」
馬脚を早めて近付いて来たのは、迂達赤副隊長のチョモだ。
夕刻を迎え、町並みは薄墨色に染まりつつある。
不審な気配は無くとも、三日目の宿泊地までは程近い。
俺は慎重を期すべく指示を出した。
「トクマナとあと二名ほど連れて、裏小路を見回って来い。何かあれば現地の兵に助力を仰げ」
「イェ」
チョモは応(いら)えと共に頭を下げ、俺はその律儀な姿を横目に、再び周囲に注意を向けた。
殺気を孕むでもなく、物珍しげでもない。
襲撃者や行幸啓の列に向けて平伏す民の忍び目とは、明らかに異なる視線を感じた気がしたのだが。
(まあいい。チョモとトクマンの二人ならば、上手くやるだろう…)
杞憂を頭の片隅へ追いやり前方に目を凝らすと、今晩の宿である寺院がようやく姿を現した。
暮色に輪郭を溶かした古雅な佇まいは、まるで一幅の墨絵のようですらある。
そんな佳景を前にして自然と思い浮かぶのは、恋しい女(ひと)の笑み顔だ。
美味いものを食い、美しいものを見て…いつかあの方と共に、気の向くまま自由な旅に出てみたい。
そう伝えたならば、一体どのような反応をなさるだろうか。
(きっと目を三日月型に細めながら口元を両手で覆い、幼子のように足踏みをして喜ぶに違いない…)
見覚えのある仕草を思い浮かべた所為で、こちらまでつい笑んでしまいそうになる。
行幸啓も折り返しを迎え、無自覚に緊張の糸が緩みかけているのかもしれない。
俺は目を瞑って小さく息を逃すと、数日前に下見した境内地の絵図を頭の中に呼び起こし、兵の配置へ思考を切り替えた。
そうして無事に寺院に辿り着き、夜半を少し過ぎた頃ーー。
仮睡の後、俺は夜番をチュンソクより引き継ぎ、王様の臥所前に腰を下ろした。
境内には持参した簡易天幕が幾つも張られ、宿坊に入り切らなかった兵達が身体を休めている。
それらを見るとは無しにぼんやりと眺めていた時、俺の耳が僅かな音を捉えた。
乱れた馬の爪音と、言い争う声。
(総門の方角か…)
外周の警護にまで迂達赤が差し出ることもないだろうと知らぬ振りをしていたが、騒めきは収まるどころか波紋のように広がりつつある。
事態を把握しておくべきかと腰を上げたところで、ヒョンウが静かに姿を現した。
いつもの軽妙な様子は無く、篝火に浮かび上がる顔色も何処となく悪く見える。
「大護軍」
「…何事だ」
「手裏房から急使です」
『手裏房』という名を耳にして、途端に嫌な予感が塊となって喉元までせり上がる。
ぐっと眉間に皺を寄せたヒョンウは、酷く聞き取り辛い掠れ声を漏らした。
「ウンスヌナが…」
どくり、と。
心の臓が大きくひとつ跳ねる。
「ウンスヌナが、行方知れずだと…」
血を流し過ぎた時のように、ぐらぐらと視界が揺れる。
鬼剣を握り持っていた手が冷たく痺れ、取り落とさぬよう何度も力を込め直した。
「いくら顔見知りでも、王様のいらっしゃる境内地までは通せません。ですから大護軍、今すぐ…」
「ここを頼む」
ヒョンウが全てを言い終わるより先に、俺は総門に向けて走り出した。
ここ数日、寄せては返す細波のように、小さな不安を事ある毎に感じ続けていた。
それが今、俄(にわ)かに抗い難い大きな津波となって押し寄せ、いとも容易く俺の根幹を打ち砕き、攫い、飲み込んでいく。
(あの方の身にいったい何が…)
しかし様々な想像を巡らせる事すら恐ろしく、俺は薄暮の中で思い浮かべた恋しい笑顔だけを縁(よすが)に、境内地を駆け続けた。