ソアさんの体調が思わしくない。
人質として怪我を負わされた上、連日の馬車移動とくれば無理からぬ事だけれど。
命に別状がないとはいえ、心理的にも物理的にも大きなストレスがかかっているはずで、出来ればこんな揺れる馬車ではなく、衛生的な場所で安静に過ごさせたい。
私は竹水筒の栓を開け、熱の下がらない彼女の口元にそっと運んだ。
「少しでいいから飲んで」
ソアさんは唇を湿らす程度に水を口に含んだ後、再びぐったりと背もたれに身を預けた。
薄暗い馬車の中で見る青白い頬が、心許なさをより一層掻き立てる。
(それにしても。この服、邪魔すぎるのよ…!)
繊細な刺繍を施した分厚い袖口は、何度捲り上げても知らぬうちに垂れ下がってくる。
その都度腕の動きを制限され、袖をたくる私の手付きも段々と乱暴なものになっていく。
朝を迎え、着替えだと差し出されたのは、珊瑚珠色の漢服一式だった。
幾重にも着込むタイプの衣装らしく、布とはいえかなりの重量になる。
いざという時の事を考えて、出来れば身軽な服装でいた方がいいと判断した私は、内着の数枚だけで充分だと言い張ったけれど。
下着でうろつくようなものだと目を剥きながら、使用人の女性達が取り囲んでくるので参ってしまった。
(何にせよ、今は人目に晒せるような身体じゃないのよね…)
チェ・ヨンに愛された痕が、未だ身体中に色濃く残っているのを思い出し、私は頑なに手伝いを辞退し続けた。
最終的にはソアさんの着替えだけをお願いして、私の方は上着まで一式ちゃんと身に付けると約束する事で、何とか引き下がってもらえた。
小ざっぱりとした服に身を包んだソアさんに教わりながら、あっちの紐を引っ張り、こっちの丈を合わせ…と格闘はしばらく続き。
どうにか自分で全てを着終わった時には、真冬だというのにうっすら汗ばんでいたほどだ。
今朝の騒動を思い出すだけでうんざりしてしまい、私は腹立たしい気持ちと共に、高そうな衣装で着膨れた自分の身体を眺め下ろす。
機能性ゼロの華やかさ重視。
どうにも身動きが取りにくい。
けれど下着だとまで言われてしまっては、いけ好かない男の前で邪魔な上着を脱ぐ気にもなれず、私は向かいの座席にゆったりと腰掛けている徳興君を睨み付けた。
途端に、昨晩の激昂などまるで感じさせない、軽薄な笑みが返ってくる。
「面白い事を教えてやろう」
「結構よ。どうせ碌でもない話でしょう?」
「其方とあの男がこれからどうなるか。どうだ、気にならぬか」
「…話しなさいよ」
チェ・ヨンに関する事だと仄めかされてしまえば、聞かないという選択肢は無かった。
耳を貸さねばよかったと後悔するに違いないと、容易に想像がついたとしても。
「そろそろ三日目の行幸啓も、終わりを迎える頃合いだ。ここ西京に一泊したのち、あの男も甥と共に開京へと引き返すだろう」
そう言うと、徳興君は隣に座るハン・ジュヒョンに目配せをした。
すぐさま身を乗り出した侍衛の男は、瞬く間に私の両手を後ろ手に縛り上げる。
「放して!何するのよ!」
相変わらずの剛力に、抵抗らしい抵抗もできないまま、遂にはソアさんと背中合わせで繋縛されてしまう。
足を蹴り上げて暴れようにも、異常に高い体温が服越しに感じられて、私は思わず動きを止めた。
「今すぐ紐を解きなさいよっ、この卑怯者!」
「まあ待て。ここからが良いところなのだ」
すぐに振動が止まり、御者の手によって窓の覆いが取り除かれる。
どうやら馬車は、藁葺きの民家が立ち並ぶ細い通りに停まっているようだ。
鉛色に濁った夕空のせいで、辺りは薄暗い。
けれどもよくよく目を凝らせば、不思議と周囲に人気が無いのが見て取れる。
それもそのはずで、ぽっかりと空いた家と家の境目から覗く向こう側の通りに、多くの人々がひしめいている。
「ここは…?」
「西京の町筋から一本外れた裏小路だ」
何故そんな場所に…そう問おうとして、私はとある恐ろしい考えに囚われてしまう。
「まさか…」
恐る恐る見上げると、徳興君は歓喜というに相応しい、満面の笑みを浮かべている。
「そう、そのまさかだ」
私が視線を窓の外に戻すと、向こうの通りでは集まった人々が一斉に道の端に平伏し始めた。
「来たようだぞ。さあ、恋しい男の姿を、とくと拝むがいい」
(再会って言ってたのに、こんな形なんて…)
徳興君の剣幕に圧倒され、昨夜は詳しく尋ねる事なく寝所を後にした。
それがまさか覗き見だとは。
2〜3メーター程度の間隙を、厳つい鎧に身を包んだ兵達が馬を闊歩させながら通り過ぎていく。
皇宮内でよく目にする禁軍の鎧が見え始め、その中には数日前に会ったばかりのアン・ジェさんの姿もあった。
反射的に声をあげそうになった私の口に、ハン・ジュヒョンの手によって、手拭いのようなものが素早く押し込まれる。
「流石にこの距離で騒がれては困る」
徳興君は堪え切れない様子で顔を伏せ、くつくつと盗み笑った。
「んうう、うーっ!」
助けを求める声は布によって響きを殺され、共鳴だけが虚しく私の鼻腔を震わせる。
背後からは、熱に浮かされたソアさんのうわ言が聞こえてくる。
「お助け、下さい…テホグン、ニム…医仙様はここ、に…医仙、様を…おた、す、け…」
こんな状態でも、ソアさんは自分ではなく私を助けてくれと、チェ・ヨンを呼んでいる。
彼女の言動から伝わる強い自責の念が、私の中にある感情の枷を外したのかもしれない。
ここまで抱え込んできた恐怖や怒りや悲しみが、一気に堰を切って溢れ出し、目の前がじわじわと滲み始める。
(泣いたらあの人の姿が見えなくなる)
必死で涙を堪えたせいで、鼻の奥が酷く痛む。
そんな私の視界に、ついに見慣れた麒麟鎧が映り込んだ。
「んんうーっ!んん、ううー!」
チュンソクさん、トクマンさん、それにチョモさんやヒョンウさん、迂達赤のみんな。
大型の馬車を取り囲むように、見知ったいくつもの姿が現れては通り過ぎて行く。
そしてその中に、恋しくてたまらないあの人の姿があった。
(チェ・ヨン!私はここにいるわ!)
チュホンに揺られる美しい横顔を目にした途端、私の心臓は高鳴るどころか、握り込まれたかのような痛みに襲われ、止まってしまいそうになる。
冷え切った目でこちらを監視するハン・ジュヒョンや、憎らしいほど楽しげに私の様子を眺めている徳興君の存在を忘れ。
背中合わせに括り付けられた、怪我人のソアさんを気遣う余裕すら投げ出して。
届かないと分かっている声を張り上げ、解けないと知っている紐にがむしゃらに抗う。
私は永遠とも思える一瞬を掴もうと必死だった。