「これはこれは。夜分遅くに何用か」


案内された部屋に足を踏み入れた途端、室内に充満していた酒と白粉の匂いが鼻を突く。


そこには華美な衣装や色味の強い化粧で盛装した数人の女性達が、徳興君と共に碁盤を囲み、談笑する姿があった。


両隣に座る女性の肩に手を回し、つまみや酒を口元まで運ばせながら、まるでわざと見せ付けているかのように、徳興君は私の目を見て不敵に笑っている。


自堕落な光景と澱んだ臭気、そして芝居気をたっぷり含んだ声に不快感を覚え、私は身体の横で拳をきつく握った。



「話があるの」


用件だけを単刀直入に伝えると、悦に入ったような頷きが返ってくる。


「よかろう。其方達、暫し下がっているがいい」


科を作って徳興君に寄り添っていた女性達は、あからさまに不満げな様子で、出入り口に立ったままの私を睨みながら退室していった。



「して、何用か」


人質を取った事で私が逃げないと確信しているのか、それとも厳重に警備体制を敷いているからと侮っているのだろうか。


余裕綽々な態度に腹は立つけれど、私には苛立ちを晴らすより先にやるべき事がある。


(頭に血が上っても、思考はクレバーに)


私は大学時代の恩師の教えを思い出しながら、自らを戒めようと細く長い息を吐いた。



交渉の第一歩は、相手のペースを乱すこと。


煽り文句で怒りを呼び起こし、冷静さを失わせた上で、こちらの欲しい言葉を引き摺り出す。


(ディールよ!さあ、乗ってきなさい)



「話があるって言ったでしょう」


無愛想に睨み付ける私の顔を見て、徳興君は意外なほどあっさりとした様子で肩を揺らした。


「相変わらず強気なことだ。まあよい、本当に話をしたいというなら、先ずは一献傾けよ」


なぜか私の言葉は、体のいい口実だと受け止められていたらしい。


盃を持ち上げながら視線だけで隣を指した徳興君に向かい、私は派手に鼻を鳴らした。


「冗談じゃないわ。卑怯者の勧めるお酒なんてまた毒でも盛られたら堪らないもの」



過去の出来事を既に知っているそう言外に匂わせると、徳興君は真顔に戻り、手酌で満たした盃を一気に呷った。


「私の顔が分からなかった事からして、記憶が戻った訳ではないようだが」


楽しげにこちらを観察していた視線が、急に冷ややかなものへと変化した。


「もしやあの男から聞いたのか」


(あの男って、チェ・ヨンの事よね?)



軽薄な仮面が剥がれ落ちたことで、改めてこの男との関係性を思い知らされる。


徳興君にとって私とチェ・ヨンという存在は、高麗国の王に冊封されるという野望を挫いた、忌々しい存在に他ならないのだと。


けれど、何故だろう。


徳興君にとって、私よりもチェ・ヨンの方が、より強い負の感情の対象のように見えるのは。


恨みか、妬みか、それとも嫌悪か。


何にせよ、そんなドロドロとしたものを、あの人に向けられるのも気分が悪い。



「チェ・ヨンさんの事?別に何でもいいでしょう。それより


「案じずとも、二度と其方に毒は用いぬ」


話を切り替えようと試みた私の言葉尻を掻き消したのは、思いもよらない明言だった。



卑怯者を信じて警戒を解くつもりはない。


それでも今は何とかあの人から話題を逸らしたくて、私は渡りに船とばかりに食い付いた。


「なぜ?」


「飛虫の毒すら解毒してしまえるようではな。私は無駄は好まぬ」



物騒な言葉とは裏腹に、いつも通りの笑みを貼り付け直した徳興君は、今度は隣ではなく差し向かいを示した。


「さあ、座るがいい」


席に着かなければ話は進展しないと匂わされてしまっては、従う以外の選択肢はない。


最初は躊躇っていた私も、渋々向かいの席に腰を下ろした。




話があるなら勝手にしろといった風に、徳興君は手酌の盃を何度も口に運びながら、私の目をじっと見つめている。


その瞳に興味の色はあれど、怒りの感情は見受けられない。


(王族だっていうのに、あれほど失礼な態度を取られても、気にもしていないのね


この男が一体何を考えているのか、さっぱり理解できない。


八つ当たりどころか、逆に不気味さばかりが押し寄せて、先程までの意欲が消え失せてしまいそうになる。


気圧されてはダメだと自らを奮い立たせ、私は冷たくなった両手をテーブルの下で握り合わせた。



「人質なんか居なくたって、逃げたりしないわ。だからもうソアさんを解放して」


丁寧に整えられたのであろう眉をくっと持ち上げて、徳興君が笑みを深めた。


「その言葉を私が信じるとでも思っているのか」


「貴方達だって、人質を取る予定じゃなかったんでしょう?私が逃げないって言ってるんだから、面倒が減っていいじゃない」


「其方が一筋縄ではいかぬ女人だということは、私も重々承知しているのでな。担保があるに越したことはなかろう?」


碁石を手慰みながら、話はそれだけかと言わんばかりに、視線が碁盤の上に落ちる。



このまま引き下がるわけにもいかず、私は矢継ぎ早に質問を繰り出した。


どこへ連れて行こうとしているのか。


私に何をさせようとしているのか。


キ・チョル亡き今、目的は何なのか。


なぜ今頃になって行動を起こしたのか。


何ひとつ答えは返って来なかったけれど。



為す術もなく、私は唇を噛み締めた。


相手の心を乱すことも叶わず、代わりに差し出せるものすら持ち合わせていないのだから、情けない事この上ない。


こうなったら、せめて溜飲くらいは下げさせてもらおうじゃないかそんな吹っ切れた考えが、私の口を滑らかにする。



「自己愛の強い人格障害者ね」


徳興君がはっと顔を上げた。


「欲望のためなら手段を選ばない冷血漢。この類の人間は、うぬぼれも強いのよ」



途端に唇の端を歪ませ、徳興君は朗らかな声で笑い出した。


「その言い草時が経っても其方は変わらぬな」


何が可笑しいのか、笑い声はしばらく続いた。



はあっと息苦しさを追い払うように息を吐くと、徳興君はちらりと目線を下げる。


「話があると言いながら私の寝所に入り込んで、仕込み刀を突き付けた挙句、ここから逃がせとでも脅すつもりかと思ったが荒事を好まぬのも相変わらずのようだ」


護身用の小刀を隠し持っているのを勘付いているのでは、とも取れる推論を向けられ、知らず知らずのうちにじっとりと手汗が滲んでくる。


図らずも、話があると言った私の言葉を、なぜ徳興君が信じなかったのかの理由も判明した。



「そもそも、其方が逃亡する必要など有りはせぬ。我々は明日にもあの男に相見(あいまみ)えようというのだから」


「何ですって?」


「あの男に会わせてやろうというのだ。大人しくその時を待つがよい」


「いったい何を企んでいるのよ!」


「さてな。何にせよ、恋焦がれた男との再会だ。楽しみであろう?」


こちらの反応を楽しんでいるのか、徳興君は人の悪い笑みを浮かべながら盃を傾けている。



私が拐われたことを知って、あの人はまた不本意な命令に従う羽目になるかもしれない。


どんな状況に陥っても、あの人ならばきっと何とかしてくれるに違いない。


そんな相反する考えが、頭の中をぐるぐると駆け巡っている。


けれど動揺する姿をこれ以上徳興君の前に晒すのも耐え難く、私はあえて虚勢を張った。


「そうね。早く会いたいわ。だってあの人貴方と違って、いい男だもの」



憂さを晴らし終わったのが先か、壁に投げ付けられた盃が尖った音と共に砕け散ったのが先か。


先程まで核心を見せようとしなかった男が、一瞬にして敵意を剥き出しにした姿を目の当たりにして、私も思わず息を呑んだ。


「くだらぬ。あの男も、あの男を選んだ其方も、あの男に選ばれた甥も。全て、くだらぬ」