手当が終わると、私達はすぐにお屋敷の裏手に連れていかれ、そのまま馬車に押し込まれた。
走り出してから随分と時間が経過したようだ。
早朝にチェ家のお屋敷を出たはずが、今や差し込む日差しは徐々に色を変えつつある。
とっくに臀部は痺れて感覚が無くなっていた。
それでも不満を洩らすどころか、身動ぎすら躊躇ってしまうのは、ソアさんが真っ青な顔をして私の肩に凭れ掛かっているからだ。
腱の斬られた右足は、爪先を伸ばした状態で添え木をいくつも添わせ、動かせないようにガッチリと固定した。
とりあえず保存療法の真似事をしてみたけれど、刃物でアキレス腱を切断なんて事例は、現代ではかなりレアなケースだ。
(だから実は私にも、この対応が正解なのか分からないのよね…)
爪先を伸ばすことで腱の断面を近づけてはみたものの、下腿三頭筋(ふくらはぎ)の収縮が早ければ、修復は不可能になってしまう。
その辺りは個人差もあり、経過を観察するしかないのが実情だ。
現代ならば当然、手術の選択肢もある。
刃物ですっぱりと切られているのだから、むしろ普通の断裂よりも縫いやすそうな気はする。
けれど今私が生きているのは高麗時代だ。
仮に今すぐ典医寺に戻れたとしても、腱のテンションに耐えられる糸がない以上、最初から縫合手術の選択肢は無い。
考えれば考えるほど、歯痒い思いばかりが募っていく。
そんな私の向かいに腰掛けているのは、憎たらしいほど和やかな様子のキム・ウォンス様と、無表情でこちらを監視するハン・ジュヒョン。
辛そうにしているソアさんを前にしても悪びれない態度が、逆に不気味にすら思えた。
(この男達こそ、本物のサイコパスよ…!)
目に力を込めて睨みつける私を、キム・ウォンス様はさも楽しげに眺めている。
「そのように睨むものではない。美しい顔が台無しではないか」
「大きなお世話よ。それよりも、これから私達をどこへ連れて行こうっていうの?」
「その言いぐさ…記憶が無くなっても、其方は変わらぬな」
どこか懐かしささえ感じる口調で呟かれた言葉が、私の胸を騒がせた。
(まるで記憶を失う前の私を知っているみたいな口ぶりじゃない…?)
そんな思考を遮るかのように、馬車はゆっくりと停止して、外から扉が引き開けられる。
周囲は既に薄暗くなっており、すでに夕暮れと言って差し支えない時刻のようだ。
「足元にお気を付け下さい」
うやうやしく頭を下げる御者を押し退けて、身形の良い初老の男性が飛び出してきた。
「ようこそお越し下さいました!」
両手を揉みながら何度も頭を下げる姿に向かい、キム・ウォンス様は頷いて見せる。
「急な頼みだが、ひと晩世話になるぞ、牧使」
牧使と呼ばれた男性は、裾が血だらけのソアさんを見て、ギョッとした表情で固まった。
けれどすぐに何事も無かったかのように、媚びへつらう見本とでもいうべき態度で、建物の中へと先導し始める。
あの様子では、仮に助けを求めても黙殺されるに違いない。
落胆する私をよそに、ハン・ジュヒョンがソアさんを肩に担ぎ上げ、馬車を降りる。
彼女が自力で歩けず、周囲の助力も期待できない以上、今はただ大人しく付いて行くしかない。
私は手荷物を抱え、黙って後を追った。
牧使というのはどうやら地方の官職名のようで、高麗王朝の中央官職、それも従二品の重臣であるキム・ヒョクの身内には、絶対服従の姿勢を貫かざるを得ないのだろう。
そうなると、事情を説明して密かに逃亡する為の協力を仰ぐのは、ますます困難に思えた。
憂鬱な思いで最後尾を歩きながら、私は徐々に広大すぎるお屋敷に圧倒されていく。
キム家やチェ家の比じゃないほどの敷地面積に、真新しく豪奢な家屋が幾つも建ち並び、警備兵や下働きの男女が所狭しと動き回っている。
自身の絶望的なまでの方向音痴も相まって、明らかに隙を見て逃げ出せる場所では無さそうだ。
「どうぞこちらの部屋をお使い下さい。後ほど夕餉をお持ち致します」
そう言って最奥の大きな部屋の前で頭を下げた牧使に向かい、キム・ウォンス様はぐるりと周囲を伺って見せた。
「随分と忙(せわ)しいな」
「申し訳ございません。昨晩は王様が御宿泊なさったので…」
担がれたまま、ぎこちない動きで顔を上げたソアさんは、白い頬を強ばらせ、驚きに目を見張っている。
きっと私も同じ表情をしているに違いない。
今朝まで王様が、そしてあの人が、ここに居たと知らされて、鼓動が一気に高まり息が切れそうになる。
(チェ・ヨン…チェ・ヨン…!)
私は櫛を忍ばせた胸元を、きつく握り締めた。
「そうか。知らぬ事とはいえ、折悪しくそのような日に宿を求めてしまうとは。世話を掛ける」
「とんでもございません!王様に続き、またも尊い血筋の方にお訪ね頂くとは…」
勢い込む牧使とやり取りするさなか、キム・ウォンス様はゆっくりと私に向き直った。
これまで何度も向けられてきた、観察するかのような視線で。
急に胸騒ぎを覚えて身構える私の前で、柔和だった表情は徐々に変化していく。
それは酷く人の悪い、昏く歪んだ笑みだった。
驚愕する私に追い打ちをかけるように、牧使の上擦った声が響き渡る。
「…恐悦至極にございます、徳興君様!」