ウトウトと入眠しかけていた私の意識が、小さな物音を捉えて急速に覚醒した。
生後半年を迎えようかという我が子は、一度寝付けば明け方まで目を覚ます事はない。
今も暑いくらいの熱を保ったまま、私の横で小さな寝息を立て続けている。
閨室の外から再び微かな物音が聞こえ、私はそろりと寝台を抜け出した。
(こんな夜更けに何の音かしら。ハクジュさん?ファジャさん?それとも…)
相変わらず夜目は効かず、出入り口に置かれた小さな明かりだけが頼りだ。
音を殺して歩み寄った私が手を触れる寸前、扉は外から開かれ、ひとつの人影が冷えた空気と共に、室内に滑り込んできた。
泥棒か、暴漢か、それとも。
助けを呼ぼうと大声を上げかけた私の口を、大きな手の平が素早く塞ぐ。
ぼんやりとした明かりに照らされた美しい顔と、鼻腔に飛び込んでくる甘く涼やかな香り。
そこでようやく私は、忍び込んできた人物が他でもない自分の夫なのだと気が付いた。
「イムジャ、お静かに。俺です」
囁きにこくこくと頷いて、私は口元を覆う手を引き剥がした。
「今夜は夜番だから、明日のお昼まで帰って来ないって言ってたはずじゃ…」
しっ、という鋭い息の音と共に、唇に指が押し付けられる。
チェ・ヨンの視線は寝台に向けられ、途端に安堵の色を浮かべた。
「くくっ…良く寝ていますね」
密やかに笑った後、今度は呂色の瞳がじっと私の顔を見つめ、柔らかく細められる。
「はいはい。どうせ寝穢い所が私に似てるって言いたいんでしょう?」
はいともいいえとも言わず、チェ・ヨンは私の肩を抱いて閨室の外へと誘う。
流石にこのまま扉の前で話し込む訳にもいかず、私も大人しく従って居間へと移動した。
初めて案内された時にはガラガラだった殺風景な部屋も、今ではすっかり家族が団欒する為のリビングらしい体を成している。
チェ・ヨンは自分が羽織っている外衣を外して私の肩に掛けると、手際良く火鉢の炭に火を起こし始めた。
「どうしたの?」
「何がですか」
「明日のお昼まで帰らないって言ってた夫が、今目の前にいるのよ?理由を尋ねるのは当然じゃないかしら」
急にチェ・ヨンの視線が私の額辺りを彷徨った。
これは言いたくない、又は言いにくい事がある時の癖なのだと、私は既に知っている。
「ね、何かあったの?」
この人も嫌というほど知っているはずだ。
気になった事は聞かずに居られない私の性格と、その頑固さを。
チェ・ヨンはふいと顔を背け、火鉢の炭を無言で見つめた後、はーっと大きな溜め息をついた。
「初雪が…降ると。書雲観(ソウングァン)から聞き及んだので…」
チェ・ヨンは正に『白状する』という言葉が当てはまるような、バツの悪い様子を見せている。
その態度が意味するのはーー。
「もしかして…自分の娘と初雪を見る為に、お勤めを投げ出して来たの⁉︎」
夜半の室内に響き渡る私の声は、見事にひっくり返った。
親バカだとは知っていたけれど、まさかこれ程までとは。
人間は驚き過ぎると、笑いが堪えられなくなるらしい。
「ふ、ふふ。ふふふっ…」
「イムジャ」
咎める視線をものともせず笑い続ける私を見て、チェ・ヨンも男らしい眉を下げて片笑んだ。
「そんなに可笑しいですか」
「ごめんなさい。でも…ふ、くくっ」
「仕方ないでしょう」
娘が可愛過ぎるから、仕方がない。
恐らくそう言いたいのだろう。
以前チェ・ヨンに伝えた事がある。
『私のいた所では、初雪を一緒に見ると永遠に一緒にいられるという言い伝えがあるのよ』と。
(こういう所よね。ほんと参っちゃう…)
ようやく笑いを収めた私は、格子戸をわずかに押し開けて外を眺めた。
途端に頬を刺すような寒風が吹き込んでくる。
雪が降るかもしれないと言うだけあって、夜空は雲に覆われているようだ。
目の前には暗闇ばかりが広がり、何も見えない。
そんな私の肩口から、チェ・ヨンが顔を覗かせて外を覗き込む。
「降り始めたようです」
「そう。初雪ね。でもあの子を起こすのは…」
長くしなやかな腕が伸びて、冷たい風を遮るべく戸をことりと閉めた。
「敢えて起こすつもりはありません」
急いで帰途についたけれど、娘の就寝前に戻れなかったのだろう。
そんなことを考えていると、急に背後から抱き込まれ、こめかみに温かな唇の感触が落ちてくる。
ぎゅうぎゅうと両腕に力が込められたことで、私はなぜかチェ・ヨンが負の感情を抱えているみたいに感じてしまった。
「そこまで落ち込まなくてもいいじゃない。また機会はあるわよ」
「そうではありません。ただ…」
「ただ、なぁに?」
手の甲をポンポンと叩いて続きを促すと、まるで縋り付くように抱擁は深くなる。
冷えた鼻筋が私の首筋にひやりと触れた。
「娘が産まれて、思い出が積み重なる度に、俺は身をもって実感するのです。どれほど貴女のご両親に対して非道な行いをしたのかと…」
この人が抱え続けている後悔の片鱗に触れて、不覚にも私の方が泣きたくなってしまう。
どこまでも優しいひとだから。
何度『貴方の所為じゃない』と伝えても、一生罪悪感を手放す事は出来ないんだろう。
互いに過去の事は謝らない、そう約束した。
だったらこれは単純に『懺悔を聞いて欲しい』といった心境なのかもしれない。
私は「そうね…」と相槌を呟いて、巻き付く腕を引き剥がし、強引に振り返った。
「ね、叔母様が贈って下さった分厚い掛け布団、凄く暖かいのよ」
無邪気な声音を意識した私に、チェ・ヨンも片頬を引き上げたいつもの笑みを浮かべた。
「それは良かった。叔母さんが聞いたら喜ぶでしょう。逆に義父上は悔しがりそうですが」
「自分が買ってやりたかったのに!って?」
「最近では、どちらがトルチャンチのトルボッを誂えるのかで牽制し合っています」
チェ・ヨンが思い出し笑いで喉を震わせた。
「幸せ者ね。娘も、私も」
伏し目がちだった呂色の瞳がふっと私を捉え、何度か瞬きを繰り返す。
私の感謝が伝わりますように。
愛してくれてありがとう。
守ってくれてありがとう。
信じてくれてありがとう。
出会ってくれて、本当にありがとう。
ありったけの想いを込めて、目の前の恋しい夫へ微笑んでみせる。
チェ・ヨンは唇を引き結ぶと、おもむろに私を抱き寄せた。
「もっと幸せにしたい。ずっと傍でその笑顔を見ていたい。イムジャ…」
掠れた細い声に、私は無言で頷いた。
この人が胸に抱えているものを少しでも軽くしてあげられたらいいと、願わずにはいられない。
(貴方の為にも、私はずっと幸せでいるわ…)
その時、かすかに娘の泣き声が聞こえてきた。
「あら、珍しいわね。火の後始末は私がするから、先に閨室へ戻ってくれる?」
あやすのは私よりもチェ・ヨンの方が上手い。
大きな手が頬をさらりと撫でて、それまでの雰囲気は無かったかのように、温もりはあっけなく去っていく。
客間を飛び出して行った藍色の背を、僅かばかりの嫉妬の気持ちで見送って、私はひとり苦笑いした。
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昨年のクリスマスに掲載したお話に、私自身で追肥をさせて頂きます。
予定ではウンスの記憶が戻り、生理も再びくるようになった所まで進んでいなくてはいけなかったんですが、トラブルによりお話が思うように書けなくて、仕方なく内容を変更致しました。
少し詰めが甘い内容にはなりますが、後日しれっと修正しておきます(笑)
読んで下さってありがとうございました。