「急ぐなら一緒に乗った方が早いわ」
私は嫌がるムジンさんを説き伏せ、馬車に引き入れた。
典医寺で殴り掛かってきた時や、チェ家の門前で怒鳴っていた時の威勢の良さは無くなり、大人しく向かいの座席に腰掛けている。
(こういうのを、『借りてきた猫みたい』って言うのかしらね…)
ガタガタと強い衝撃が尾てい骨を突き上げて、骨盤が割れてしまいそうな痛みが押し寄せる。
「いたた…馬車は苦手なのよね」
気まずい沈黙をどうにかするべく、私は大袈裟に腰を摩りながらぼやいた。
するとムジンさんがようやく口を開く。
「あんた、変わってるな」
「そうかしら」
「ほら。そういうところ」
別人のように穏やかな声音だった。
言葉を選んでいるのか、ムジンさんは両膝の上に置いた拳を眺め続けている。
口の端に乾いた血の塊がこびり付いたままだ。
「喧嘩したの?」
私は荷物の中から猪蹄湯の小瓶を取り出し、手巾に染み込ませて素早く口元を拭った。
「そんな暇人じゃ、痛…っ!」
「あ、ごめんなさい。染みるわよね」
「あんた、本当に変わってるな。俺みたいな他所の奴婢なんて、放っておけばいいのに」
卑屈な言葉に聞こえないふりをして、私は道具をしまいながら、ずっと聴いてみたかった疑問を口にした。
「誰に殴られたの?まさかあのアジョシ?ほら、あの…キム・ヒョクとかいう…」
ムジンさんは大きく目を見開いて絶句している。
(私ったら、何か見当違いな事でも言っちゃったのかしら…)
「従二品のキム・ヒョク様を、アジョシ…?」
「だって私はあの人に雇われてる訳じゃないし。だからアジョシって…なんで笑うの」
「い、いや。でも、ははっ…」
ひとしきり肩を揺らした後、ムジンさんは目尻を拭って首を振った。
「キム・ヒョク様は行幸啓にご同行中だ。殴ったのはキム・ウォンス様の侍衛…って、何で俺こんな事をべらべら話してるんだろうな」
「まさか虐められてるんじゃ…」
「それこそ、まさかだろ。俺はあんな奴に虐められるような腰抜けじゃない」
笑った事で気負いが無くなったのか、ムジンさんは年相応の拗ねた表情で唇を尖らせた。
「馬鹿な俺にだって分かる。チェ家の当主が留守の間に、滞在中の医仙を強引にキム家の屋敷に呼び付けるのはまずいって事くらい…」
「そうね。きっとあの人、後で知ったらすごーく怒ると思うのよ」
「くくく…他人事かよ。あんた、本当にお高くとまらないっていうか、そんなんじゃ他の奴に見くびられちまうぞ」
「いいじゃない。いくらお高くとまったって、身の丈に合った以上の事は出来ないもの」
するとムジンさんは泣き出しそうに眉を下げて、私をじっと見つめる。
「妹も、あんたのような人の…」
その頬に浮かんでいたのは、先程までとは打って変わって、年齢にそぐわないくたびれた微笑みだった。
「ね、ムジンさん。何か困ってるんじゃない?妹さんがどうかしたの?」
それ以降、私が何度問い質しても、彼の口が再び開く事はなかった。
絶え間ない振動が止んだ。
どうやら目的地に着いたらしい。
馬車から降りた私を出迎えたのは、門柱横で頭を下げる立番の男性と、相変わらずの豪奢なお屋敷だった。
門前に停めた馬車の御者席には、年季の入っていない麒麟鎧を纏う迂達赤隊員の姿がある。
指示を待っているのか、不安げにこちらをじっと窺っている。
「もう少ししたらテマンさんが来てくれます」
途端に安堵の表情になったのを見届けて、私は先を急いでキム家のお屋敷に駆け込んだ。
(吸入薬が無い時代だもの。鍼でどれだけ気管支を拡張出来るかが問題よね…)
振り返る事なく歩き続けるムジンさんに付いて行くと、以前は幾人も居たはずの警備の兵士達と一人もすれ違う事なく、最奥の家屋まで辿り着く。
静かな敷地内に、速い歩調で切れた私の息の音だけが、ひゅうひゅうと寂しく響いている。
「う、運動不足ってやつよね。はぁ…はぁ…」
ずっと無言で背を向け続けていたムジンさんが、やっとこちらを振り返った。
強張った頬が少し腫れているように見える。
「明日、典医寺にいらっしゃい。その傷に効きそうないい軟膏があるのよ。門番の兵士に伝えておくから、妹さんも一緒に。ね?」
すると何を思ったか、ムジンさんは深く頭を下げて、一言ぽつりと呟いた。
「ごめん」
そのまま背を向けて歩き去る彼が何を言いたいのか察せないまま、私は今度こそ本来の目的を果たすべく、キム・ウォンスさんの居るであろう家屋へ声を掛けた。
「ユ・ウンスです。往診に参りました」