夜半を過ぎた頃。
俺はチュンソクに警護を引き継ぎ、王様の寝所を後にした。
あれほど騒々しかった宴もとうに果て、今では屋敷全体が糸を張り詰めたかのような沈黙(しじま)に包まれている。
膠着した夜気を震わせるのは、立哨する兵達の身じろぐ気配と時折爆ぜる篝火の音だけだ。
行幸啓は明朝からも続く。
昨晩に続き、無理をしている自覚はあった。
だからこそ例え浮寝であっても、身体を休めておかねばならんと頭では分かっている。
しかしチェ家の屋敷を発つ際に見た、あの方の強がりな笑顔が目蓋の裏にちらついて、どうしようもなく心が騒ぐ。
(勘違いとはいえ、まさかイムジャがあのような悩みを抱えていたなどとは…)
正式に妻問いすると心に期したのは正に今朝方の事であり、全ては今日まで思い倦(あぐ)ね、踏み切れずにいた俺の所為だ。
こんな心情のままでは、充てがわれた臥所にて仮寝する気にもなれず。
仕方無く敷地内をひと通り巡見して回るべく、周囲に目を配る俺の頭の片隅に、今朝方の様子が自然と浮かび上がってくる。
正体無く眠り込むイムジャの顔を眺め下ろしながら、俺は寝台の縁に腰掛けて、幾度も蘇芳色の髪を撫で付けた。
湯を使い、さっぱりと洗い上がった髪は、僅かに湿り気を残して指に絡み付いてくる。
(櫛で梳かしてやりたいが、目を覚ましてしまうだろうか…)
その時ふと、今の今まで忘れ去っていた形見の存在が頭を過る。
長い睫毛が滑らかな頬に濃い影を落としており、俺は眠りを妨げぬよう閨室内に灯っている明かりを全て消して、そのまま母屋の隣にある蔵へ向かった。
父が亡くなって以来、初めて足を踏み入れた蔵の中は、見覚えのある品で埋め尽くされている。
開かずの扉だと思っていたが、埃っぽさが無いところを見ると、どうやら老夫婦がこまめに風通しをしてくれていたようだ。
遺された書物の筆跡からも窺える父の性格通り、仕舞い込まれた品々は几帳面に整理されており、目当ての物は直ぐに見つける事が出来た。
丁寧に紙と布で包まれ、使われた形跡の無い黒松の櫛は、長く臥せっていた母の気慰みとして、父が贈った物だと聞き及んでいる。
済州島の黒松で作られた櫛は病を払うとの言い伝えがあり、少しでも復調の助けになればという切実な願いも込められていたのだろう。
穏やかな表情で床に就く母と、その枕元で黙然と漢籍を紐解きながら、時折愛おしげな眼差しを向ける父の姿が、まるで一幅の絵の如く脳裏にこびり付いている。
在りし日の思い出を偲ぶうち、俺はイムジャとの関係のありようについても考えを巡らせ始める。
俺との子が欲しかったから…と。
あの方は確かにそう言った。
それはつまり、俺との間に子を儲け、妻として生きる覚悟があるという事だ。
俺は手中の櫛を強く握り締めた。
幸せにしてやりたいと思えば思うほど、イムジャの一生を俺のような男のもとへ縛り付けてもいいものかと、つい躊躇してしまっていた。
(手放せるはずもないというのに…)
武士であり続けるという事は、これからも人を斬り続けるという事だ。
それは変えられぬ。
戦にも赴くだろう。
そうなれば傍に居られない日は幾月も続く。
御両親をはじめ全てのものから引き剥がして、あの方を高麗の地へと攫って来たのは俺なのに、父のようにずっと傍で見守ってやる事も出来ない。
いつかはと思いつつも、口に出して伝えるのをずっと先送りにしていた。
だがもうやめだ。
俺はあれほどの覚悟を見てしまった。
だから帰り次第、きちんと伝えよう。
妻になってはくれまいか…と。
俺は手中の櫛をしみじみと見つめ直した。
形見であるこの櫛の存在は、ずっと記憶の底に埋もれており、今日迄くの字も浮かばなかった。
それが唐突に思い出されたのは偶然か、もしくは両親が俺を諭そうとしたとでもいうのだろうか。
そこまで考えて、まだ心の弱さが拭い切れていないのかと、自分でも可笑しくなってくる。
とうの昔に亡くなってしまった両親を引っ張り出してまで、己の尻を叩こうなどとは。
(全ては捉え方次第だ。それに、きっとあの方も喜んで下さる…)
自虐した事でようやく肩の力が抜けた俺は、自らの決断の証として恋しい女(ひと)に差し出すべく、形見の品を握り母屋へと引き返した。
「大護軍?…大護軍!」
聞き慣れた声が俺の意識を引き戻す。
知らぬ間に臥所に辿り着いていたようだ。
目の前には、怪訝そうにこちらの様子を窺うヒョンウの姿があった。
しんと冷えた暗闇の中、室内に小さく明かりが灯されている。
「何だ」
「何だ、じゃないでしょうが。まったく」
中に入れと言わんばかりに扉を開け放ったヒョンウは、頭の先から爪先まで無遠慮にこちらを眺め回した。
「四半時で空っぽの丹田が満ちる訳がない。ウンスヌナに気を…その…やり過ぎです」
今から運気調息に入れと言いたいのだろう。
無理矢理貼り付けたような顰(しか)めっ面が物珍しく、俺はすれ違いざまにヒョンウの短く切り詰めた頭髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「しばらく見張りを頼む」
☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.
結論→ 責任感が強く真面目で完璧主義な男性ほど、マリッジブルーは酷いらしい…というお話でしたε-(´∀`; )
つい先日、Netflixでのシンイの視聴期間が終了するとのお話が聞こえて来ました。
(我が家はU-NEXT派なので存じ上げませんでしたが、シンイファンとしては再配信が待ち遠しいですね!)
それに合わせて、久しぶりにドラマを全編通してご覧になった方もいらっしゃるようです。
前述以外でも、最近シンイのドラマを見てないなーという方が多いのではないでしょうか。
なぜ私がこのような話題を出したかというと。
たまには原作であるシンイのドラマを楽しんでみませんか?というお誘いです。
私はもっと読み手の皆さんに、シンイの世界を愛してもらいたいなと思っています。
(もう充分愛していらっしゃるでしょうが、上限はありませんので…)
二次小説も楽しいものですが、それはオリジナルの素晴らしい世界があってこそです。
ヨンとウンスだけではなく、二人が生きる世界やそこに息づく人々を、もっともっと愛して大切にしてあげて欲しいのです。
最後になりましたが。
あなたの押していらっしゃる『いいね!』が、シンイ愛に溢れている事を願います。