金青の空が徐々に白さを増して、忘れがたい長夜に幕を引こうとしていた。



目当ての物を探し当てた俺は、蔵の戸に施錠し直し母屋へ引き返した。


閨室に足を踏み入れると、濡れた髪を拭き終わったイムジャが、何やら熱心に毛先を眺めている。


「イムジャ。髪を梳いて差し上げましょう」



俺は母の遺品である黒松の櫛を使い、豊かな蘇芳色の髪を慎重に梳(くしけず)っていく。


「長い間蔵に仕舞い込んでいた品ですので、行幸啓から帰ってきたら、きちんと油を塗って手入れをして差し上げます」


そのまま使い終わった櫛を手渡すと、大きく見開かれた瞳が戸惑いの色を浮かべながら、俺の顔と手中の櫛を交互に見比べた。


「蔵にって事は、お母様の遺品でしょう?」


「身体が弱く臥せりがちだった母に父が贈った物だと聞き及んでおります。ですがご覧のように新品同然なので。貴女に使って頂ければ、両親もきっと喜ぶでしょう」


「ありがとう、チェ・ヨンさん。大切に使わせて貰うわね」



イムジャは柔らかな手付きで櫛をひと撫でして、はたと何事かを思案するような素振りで固まった後、慌てて俺を振り仰いだ。


「貴方に言わなきゃいけない事があったのよ。私ったらすっかり忘れちゃってて


「何です」


「兵舎の部屋に置いてある箱の中から、ペンダえっと、首飾りを無断で持ち出してしまったの。ごめんなさい」



今の今まで、その品の事は驚くほど綺麗さっぱりと、記憶から抜け落ちていた。


ご両親から贈られた大切な首飾りを、むしろ返しそびれていた俺こそが詫びるべきであって。


「貴女が記憶を失ってしまった折、預かっていた荷物を紛失せぬようにと、小物を別に保管したのですすみませんイムジャ」


「忘れていたんでしょう?別に謝るような事じゃないわよ」


「そうではなく」



今思えば、その時の俺は首飾りを返しそびれたのではなく、無意識に返す事を避けたのではないだろうか。


里心が付きそうな思い出の品を、イムジャの目に触れさせるのが恐ろしくなったとでも?


(もしそうならば


それは故意でなくとも、卑怯で恥ずべき行いだ。



ふと、白く細い手が俺の肩を揺さぶった。


「ね、チェ・ヨンさん。私の荷物をここに持って来てくれる?」


あれこれと今更考えても詮無き事だと、何とか頭を切り替えた俺は、客間からイムジャの手荷物を運び込んで手渡した。



桑染(くわぞめ)の地味な風呂敷を開くと、中から鮮やかな青色の袋が顔を覗かせる。


見覚えのある頑丈な作りのそれは、俺が王様より褒美として賜り、つい先日イムジャの求めに応じてお返ししたばかりの品だった。


便利だから使わないと勿体無い、そして少しばかり値が張った物だから、と。


ちゃっかりしていると言うべきか、こういった事には案外打算的な方なのだ。


しかし本音と建前が逆になっている様すら愛おしく見えてしまうのだから、俺という男は本当にどうしようもない。


(惚れた欲目というやつだな。参っちまう



この方が高麗に来られたばかりの頃、攫って来た償いに壷と絵が欲しいと、王様に強請ったのだと聞き及んでいる。


自分の後ろ盾には王様がいらっしゃるのだからと、壷を大層大事そうに抱え、華奢な顎をつんと上げて虚勢を張っていた姿が、まるで昨日の事のように思い出されて。


先程までの自責の念は何処へやら、俺は必死で笑いを噛み殺した。



「確かここら辺にんー。あった!」


目の前に突き出されたのは、小さな拳からぶら下がった件(くだん)の首飾りだ。


柔らかさを欠いた青白い暁光が、細く精巧な作りの鎖をちらちらと輝かせている。


先端の飾り部分には不思議な形を象った石座があり、その中に埋め込まれている鉱石は一見濃紫に見えながら、揺れる度に光を吸い込んで、瑠璃にも燻銀にも変化する。



「貴方に預けるわ」


イムジャは俺の手を取って首飾りを握らせた。


「だから私の代わりに連れて行って」



真意を測りかね、答える事が出来ずにいる俺の目の前で、柳眉がぐうと下がる。


「私のいた場所ではね、いつでも好きな時に顔が見られて声が聞けたのよ。でもここでは無理だから


鳶色の瞳は涙を浮かべるでもなく、哀しさを切々と訴えてくるでもなく、ただただ儚げな様子で視線を落とした。


何だか寂しくて」



過去の事はこれ以上詫びぬと決めている。


ならば今の俺がなすべきは、この方の意を汲んでやる事だけだ。


俺は首飾りを懐中に忍ばせると、寝台の縁に腰掛けているイムジャの隣に腰を下ろし、薄い肩をゆっくりと抱き寄せた。


「きっとそのうち慣れるわよね」



過去の記憶を失った上、未だ先行きすら定まり切らぬこの方には、たった五日程度でも俺と離れるという事に不安があるのだろう。


だがひとたび戦ともなれば、更に長期間開京を離れる事もある。


故に嫌でも慣れてもらわねばならぬ。


しかし今の状況下でそれを言葉にする事は憚られ、俺は口を噤んだまま、頼り無げな肩から背を手の平でそっと摩った。



「ーーッ!」


途端にイムジャが息を詰めて身体を強張らせる。


その理由には心当たりがあり過ぎて。


「無体を働きました。此度は相当痛むでしょう」



衣の下がどのような有様になっているかなど、見ずとも分かり切っている。


全身余す所なく噛み付き、吸い上げ、真白い肌を欲望のままに汚しまくったのだから。


痛みすら愛おしいそんな風に甘やかされた末路がこれだ。



己の小胆さに嫌気が差して、どうやら俺は気付かぬ内に唇を噛み締めていたらしい。


温かく柔らかな感触が一瞬だけ唇に触れ、軽やかに去って行った。


突然の事に驚く俺を、イムジャが穏やかな表情を浮かべながら静かに見守っている。


愚かな俺を宥(ゆる)し、包み込もうとするように、慈愛に満ちた目が緩やかに弧を描く。


昨晩の婀娜な姿との落差に目眩すら覚えて、俺は諸々の心情に耐え兼ね、素早く立ち上がった。


「身支度をして参ります」






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一晩の閨事話に16話も費やしてしまい、アメンバー以外の方には、すごーくお久し振りとなってしまいましたε-(´; )

まあ、阿保ですよね(笑)


のろのろですが本編を進めて行きたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m