とっぷりと日が暮れた真冬の庭園は、夜露の兆しで湿り気を帯び、影さえも凍りついてしまいそうな程に冷たい空気で満たされている。


俺の隣を歩くイムジャは、まるで肌に染み入る寒さを確かめるように、白くけぶる息を細く長く吐き出した。



「見て、真っ白。冷えるわね」


「足元も見てください。転んでしまいますよ」


「大丈夫。チェ・ヨンさんがいるじゃない」


「まったく、貴女という人は



俺が掲げる手持ち灯籠の明かりをぼんやりと眺めながら、イムジャが微かに笑う。


瞳の中に、ゆらゆらと頼り無げに揺れる柑子色を纏わせながら。


儚くけぶるような反照に思わず見惚れていると、イムジャはその色を俺に差し向けた後、唇の端に控えめな愛想を貼り付けた。


「勝手にご夫婦を食事に誘ってごめんなさい」


「それは構いませんが


「ふふっ。チェ・ヨンさんってば、何か聞きたくて仕方ないって顔してるわ」



あっさりと言い当てられてしまい、俺は思い切って口を開いた。


「夕食時の様子が、ずっと気になっていました」


「そうやっぱり貴方には分かっちゃうのね」


「もしそれが、元いた場所への名残惜しさからくるものなのだとしたら


その瞬間、外衣を引かれて俺は足を止めた。



イムジャはぐいと身を乗り出すと、思わぬ強い瞳で、こちらの視線を絡め取る。


「一つだけ先に言っておくわ。私、別に里心がついたわけじゃないからね」


はい」


「帰らないって決めたからこそ、少しだけ感傷的になっちゃったのかも。何だかファジャさんが、私のお母さんに似てるから


鼻の頭と頬を僅かに赤くして、眉を下げ笑う様子が、この方の諦めと覚悟を表しているようで。


俺は外衣の内に匿うが如く、懐中深くイムジャを抱き込んだ。



細腕が背に回される感覚と共に、胸元から吐息のような呟きが聞こえる。


「あったかい」


「そろそろ中に戻りますか?」


イムジャはふるふると首を振った後、腕の力をほんの少し強めた。


「白熟はね、子供の頃にお母さんがよく作ってくれた料理なの。でもその当時はあまり好きじゃなかった。子供心に、もっとお洒落な料理を作ってよって思ってた。だから今日という大切な日に、お母さんに似てるファジャさんと思い出の料理を囲めて、本当に良かった」


相槌の仕方すら忘れてしまったかのように、俺はただその背を摩る事しか出来ないでいる。


「自分勝手だけど、貴方を選んで両親を切り捨てた申し訳なさが、何だか少しだけ慰められた気がして。本当なら貴方の傍で生きていくって決めた事も、両親に伝えたいけれど。私にはもうそれは叶わないから



口数多く喋り続ける声は、ひとたび夜風が吹けば、風葉に紛れて吹き散らされてしまいそうなくらいに、頼りないものだった。


真冬の冷たい空気を取り込んだ肺が痛むのか、それとも、この方を見知らぬ地へと攫って来た罪悪感で心が痛むのか。


きりきりとも、じくじくとも言えぬ痛みが、身体の芯を苛んで、知らぬうちに呼吸が浅くなる。



「んもう。もしかして私に悪いとか思ってるんじゃないでしょうね」


そんな明瞭な声と共に、抱きついたままのイムジャが俺を振り仰いだ。


「正直言うと、両親の事を口に出したら貴方が私に対して申し訳ないって思うのかなって、ずっと怖くて言えなかった」


「それは


「お願いだからそんなふうに思わないで。貴方はちゃんと約束を守って、私を天門まで送ってくれた。そして私は自分の意思でこの時代に戻ってきた。そうでしょう?それに私、貴方に出逢えて本当に幸せよ」



俺の心を掬い上げる為なのか、懸命に胸の内を語るイムジャの姿に、喉の渇きにも似た、焦りと満たされなさが湧き上がった。

 

「約束を違えたら、相手の願いを一つ聞くという話でしたね」


「え、ええ」


「では、一度だけ謝らせて欲しい。嫌がる貴女を無理矢理この地へ攫って来たのに、俺は詫びる事すらしていなかったのが、ずっと気がかりだったのです」


「だってあれはチェ・ヨンさんの所為じゃ


「最初は貴女を無理やり攫って来た事自体に、そしてその後は天門の前で引き止めた事を謝りたかった。でも今は


胸元で俺の言葉を不安そうな表情で待っている唯一の存在に向けて、己の中の最も欲深い想いを、全て曝け出した。


「例え過去をやり直す事が出来たとしても、俺は何度でも貴女を攫うでしょう。貴女がどんなに泣いて嫌がっても、死ぬ気で抗っても。だから悪いが諦めて欲しいすみませんイムジャ」



この方が唇をぎゅっと引き結び、泣くまいと目に力を込めている。


ふうふうと何度も懸命に息を逃し、ご自分の中で込み上げる何かを抑え込むようにした後、解けた唇をいつもの如く尖らせた。


「私以外の女を選んだら、許さないわよ。勝手に天門をくぐって、押しかけてやるんだから。貴方の方こそ諦めてよね」


鼻先や頬だけでなく目の縁まで赤いのは、真冬の寒さの所為か、それとも



「話は終わりです。もうこれ以上、俺が貴女を攫って来たなどと言えば、それはきっと貴女の決意を蔑ろにしているという事でしょうから」


イムジャは満足そうな笑みを浮かべ、やんわりと俺の手を引いた。


「長話しちゃったわね。寒いからもう中に入りましょう」