「王室から賜った珍しい樹木だそうです。何でも、この地には根付き難いのだとか」


すると突然、イムジャが駆け寄って来るなり、俺の袖口を握り込んだ。


「何です」


「うん


「何か気になる事がありましたか」


イムジャは俯いたまま、何か言いにくそうに逡巡している。



屋敷に着いてから、この方が何度か物寂しげな表情を浮かべていたのが気になっていた。


そして、今もまた同じ様子を見せている。


何も伝えず見知らぬ場所へ連れて来た所為で、心細さを感じさせてしまったのかもしれぬ。


いずれにせよ、状況の説明が必要に違いない。



「いったん屋敷の中へ入りましょう。日当たりが良いとはいえ、ここは冷えます」


俺は袖口を握る手を外させると、己のものとしっかり握り合わせて歩き出す。


「あ、あの手、離して。見られるわよ」


困惑した様子のイムジャに「構いません」とだけ告げて、俺はそのまま母家に足を踏み入れた。



客間の扉を引き開けると、そこには馬の世話を終え荷物を携えたハクジュと、茶の準備をしているファジャの姿があった。


俺達二人の手元を見て、ハクジュは素早く視線を外し、ファジャは手を口に当てて「まあ!」と驚嘆の声を上げる。


この方の為なら体面は犬にでも食わせてやるそう覚悟を決めている俺とは違い、イムジャは居心地が悪かったのか、慌てて手を引き剥がした。


「こ、こけそうになっちゃったんです。私ったら、あはは。ありがとう、チェ・ヨンさん。もう手を引いてくれなくても大丈夫だから!」



盛大に両手を振りながら、取り繕うような言葉を口にするこの方は、どうもこういった状況に慣れていないらしい。


それはすなわち、慕い合う男を公然と傍に置いた経験が無いそういう事なのだろう。


マンボの店での様子を思い出しながら、俺は妙に納得する。


(全くこの方は。こっちの方が参っちまう



また一つ新しい顔を知り、独占欲とも支配欲とも違う熱い何かが、胸の奥で甘く疼く。


俺は空嚥下でそれを抑え込むと、いまだ深く被ったままになっている外衣の頭巾を、ゆっくりと脱がせてやる。


寒さの所為かそれとも羞恥心からか、頬を真っ赤に染めた花の顔(かんばせ)が露わになり、何度見ても飽き足らぬその美しさが、今もまた俺の心を鷲掴んだ。



向かい合ってイムジャの両手を握り、淡い鳶色の瞳を覗き込むと、傍らに控えているハクジュとファジャが気になるのか、落ち着きなく視線が彷徨っている。


「この二人は、俺が生まれる前からチェ家に仕えている、信の置ける者達です。故にここに居る間は、そのように身構えずとも構いません」


俺の言葉を受けて、イムジャは何か言い掛けて口を開き、なかなか出てこない言葉に諦めたのか、そのまま口を閉ざした。



すると沈黙を破るように、歳を感じさせない明るいファジャの声が客室内に響く。


「まあまあまあ!仲睦まじいお姿が、まるで先代の旦那様と奥様を拝見しているようですわ」


「ヨボ!やめないか」


「鉄瓶のお湯が沸きましたから、すぐにお茶をお出し致しますね」


ハクジュの嗜める声にもどこ吹く風といった様子で、ファジャは愛嬌者らしい笑顔を浮かべながら、茶器と火鉢の間を忙しなく動き回る。



イムジャは大きな目をしきりに瞬かせてその様子を見詰めていたが、ふと俺とハクジュを交互に見比べ始めた。


傍に視線をやると、日頃は厳しい表情を崩さないハクジュが、ほとほと困り果てたように眉を下げ、柔らかな目色を浮かべたまま唇だけを固く引き結んでいる。


珍しいものを見たような気持ちでイムジャに視線を戻した瞬間、俺の目の前で薄い唇が思いっきりへの字口になった。


「何かありましたか」


無言で首を横に振るこの方に再度何事かと問えば、唇の端を震わせた途端、薄い身体を折るようにして腹を抱えて笑い出した。


「ふ、ふふあははは!だ、だって。貴方とハクジュさん、全く同じ顔してる。っくくく」


妙な面映さを覚えて思わず指先で顎を擦れば、同時にハクジュも真っ白な顎髭を扱く。


その様子が新たな笑いを誘ったのか、イムジャはしばらく肩を揺らし続けた。



「はー可笑しかった。ふふふっ」


収まらぬ笑いを堪えようとしているのか、イムジャは再びへの字口になった。


これもまた新たに知った、この方の癖だ。


本来の目的を思い出し、俺は屋敷に連れて来た事が間違いでは無かったと確信する。


そして、らしさを取り戻したイムジャの、知りたがりの虫が騒ぎ出す前に口を開いた。


「ハクジュ、ファジャ。何かあれば呼ぶ。一旦下がってくれ」