「医仙様、もう少しで着きますから!」
先を歩くリュ・ソアさんの良く通る声に頷きを返し、私は真冬の冷たい風を遮るように、厚物の外衣の襟元をぎゅっと掻き合わせた。
開京の町を歩くのは、まだ少しだけ恐ろしい。
それでも前にソアさん、両脇と後ろを武女子に固められ、私はようやく目的の地まで辿り着こうとしている。
ソアさんからあの人への恋心を仄めかされ、今まで敢えて目を背けていた私の今後について、独り思いを馳せて一晩を明かした。
もし今目の前に天門が開かれたとしたら、私はどんな選択をするのだろう…そんな想像をしてみたところで、一向に答えは出なかったけれど。
『ウンスヤ…愛してる』
『それでこそ「ぱーとなー」というものです』
『どうしようもなく、離れ難い。参った…』
あの人の事を思い起こせばこんなにも胸が熱くなるのに、その存在を置いて私は元の場所に戻る事なんて出来るのだろうか。
一度抱かれてみれば、自分の気持ちがはっきりすると思っていたけれど、残念ながらそうはならなかった。
(お父さん、お母さん。心配してるよね?どうしよう。私、あの人の事…)
現代への未練は両親の事だけ。
それは自分の中でもはっきりしている。
仕事も便利な暮らしも友達も…あの人の存在には代えられない。
私はただ怖いだけなんだと思う。
あの人への想いを頼りにここに残ったとして。
チェ・ヨンは私を裏切らないし、絶対にこの手を離さない。
でも周りの状況が、あの人の隣にいる事を許してくれるとは限らない。
チェ・ヨンの夫人が何人だとか、一緒にお墓に眠っているのが第二夫人の『柳夫人』だなんて、それだけの問題じゃなくて。
政略結婚も一夫多妻制も、この時代の政にそぐう制度であり、綺麗事だけで都合良く全ての不運を免れる事なんて、できないんだって分かってる。
あの人が万が一にでも政治的に困難な局面に立たされたとして、後ろ盾の無い私ではそれを助ける事は叶わない。
『国に尽くした我が同胞の師、チェ・ヨン将軍』
本来あの人と結婚する筈だった女性の助力もあって、将軍の地位まで上り詰めたんだとしたら、私を選んだ時点で歴史が変わってしまう事になる。
(下手をすれば、韓国という国が消滅してしまうかもしれない。それどころか、私自身もあの人の目の前で消え去ってしまうかも…)
私の前を歩いていたソアさんがぴたりと足を止め、軽やかな動きで白い胡服の裾を翻しながら、くるりと笑顔で後ろを振り返った。
「医仙様、患者様の所に着きましたよ!」
開京の町外れにあるその立派なお屋敷は、石積みの壁でぐるりと外周が囲われており、その端が見えない位に広い敷地を有していた。
周囲にも立派な瓦屋根のお屋敷が幾つか建っているけれど、ここだけは一種異様な程、贅を尽くされているという感じがする。
無垢材で作られた入口の門は重厚な造りで、ソアさんが左右の立番の男性へ声を掛けると、大きな二枚扉は軋むような音を立てて観音開きに開かれた。
そこから覗き見えるのは、王宮の建物に勝るとも劣らない立派な家屋で、それがいくつあるか数え切れない程に建ち並んでいる。
敷地内に足を踏み入れれば警備を担う兵士の姿があるのみで、町外れという立地の所為か、豪奢なお屋敷の割には驚くほど静かな空間だった。
敷地内の中央には大きな庭園があり、立派な池に橋と東家が設られ、その周囲には真冬にしては珍しい程様々な樹木や草花が、きちんと管理されている状態で常緑の姿を保っている。
その中をソアさんは勝手知ったると言った感じで、淀みなく足を運んで行く。
先日とある重臣の方からの達ての願いで、典医寺の医員に家人を訪問して診療してもらいたいという申し出があり、王様からのご下命により彼女は何度かここへ来た事があるらしい。
今日このお屋敷を訪れたのは、昨晩の私の様子を心配したソアさんが気分転換にとでも考えたのか、助手として同行するよう今朝になって急に勧めて来たからだ。
幸いな事に一晩経って体の痛みも引いており、さして断る理由も無かったので、私も承諾した。
本当のところは気が向かなかったけれど、「貴女と顔を突き合わせる気分じゃないんです」なんて理由で仕事を断るほど、子供じみたわがままを言える訳も無かった。
最奥にある家屋に辿り着くと、その入口の前で兵士に引き止められる。
「これより先は、医員の方以外の出入りはご遠慮下さい。護衛の方々は離れの方でお待ちを」
武女子三人が抗議の声を上げるけれど、取り合ってくれそうな気配は無く、一触即発の雰囲気だ。
今朝坤成殿へ頂いたチマチョゴリの件でお詫びに伺った際に、開京の町中を歩くと知った王妃様が心配して付けて下さった護衛だったので、お屋敷の中までは必要ないだろうと判断して、私は慌てて取り成した。
「皆さん、私とソアさんだけで行って来ますので、少しの間待っていて下さい。大丈夫ですから」
そんな私の言葉に渋々といった具合で去る背中を見送り、私はソアさんに目礼をすると、彼女も頷き返して共に患者さんの元へと向かう。
入り口で靴を脱ぎ建物の中に入ると、外観に負けず劣らずの豪奢な内装が施された部屋の最奥に寝台が置かれ、一人の男性が横たわっていた。
「典医寺より、リュ・ソアが参りました。本日のお加減はいかがですか。キム・ウォンス様」
ソアさんの声が聞こえたのか、キム・ウォンスと呼ばれた私とそう変わらない年齢に見える男性は、体を起こしニッコリと微笑んだ。
「やあ。わざわざ悪いね、リュ先生。おや、今日はお供の方も一緒だね」
私は会釈をして「ユ・ウンスです」と名乗った。
そんな私にしっかりと目線を合わせ頷いたキム・ウォンス様は、とても品が良く穏やかで人当たりの良さそうな雰囲気を醸し出している。
病人だというのに、黒々とした髪も口髭も綺麗に整えられ、乱れた所もない。
流石にこれだけのお屋敷の住人なだけあって、身嗜みだけで無く、着る物ひとつ見ても贅沢な暮らし振りなのが見て取れた。
一通りソアさんが病状を診るのを横で見学していると、彼女が私に「医仙様」と呼び掛ける。
「使用人の方に煎じ薬の変更を説明して参りますので、ここでしばらくお待ち下さいね」
そう言って、止める間も無くぱたぱたと表へ出て行った。
「貴女があの高名な『医仙』ですか」
声に振り返れば、キム・ウォンス様が興味津々といった表情でこちらを窺っている。
「はい。何故だかそう呼ばれているみたいです」
てきぱきと診察をこなすソアさんの横で見守る事しかしていなかった私は、その名を素直に受け入れる事に抵抗があったけれど、下手に誤魔化す訳にもいかず頷いた。
そんな私にキム・ウォンス様は柔和な笑みで驚くべき言葉を口にした。
「そうですか。四年振りに高麗にお戻りになられたとか。王様も治世安泰だと御喜びでしょう」