「王様。小臣本日はお願いしたき儀が御座いまして、お目通り願いました」


いつになく形式張った申し出に、王様は少し目を見開いた後、広げていた上奏文を脇に置いた。


「何だ、随分と畏まった物言いだな大護軍チェ・ヨン。構わぬ、申してみよ」


「医仙の居所を典医寺にお戻し頂きたいのです」





今朝のこと、俺はイムジャと共に朝食を取りながら、今後についての話を持ち掛けた。


「相談と言うのは他でも無い、貴女の先行きについてです。何かご希望がおありですか」


「私の、先行き?」


「王宮内での生活の事です。これを機に、所在を迂達赤から典医寺に移しては如何ですか」



俺の提案に驚いたのか、口に含んだ芹の和え物が喉を塞ぎそうになり、イムジャが慌てて水で流し込んでいる。


「けほっ。ねえ、その言葉を私はどう受け止めたらいいのかしら。出て行けと言う意味にしか聞こえないのだけれど」


「誤解を恐れずに言えば、そうなります」


「理由を聞かせてちょうだい」


イムジャは食べ掛けの膳を押しやり、居住まいを正した。



初めてこの方と出会った頃は、一々理由を尋ねられるという行為が煩わしく思え、心が騒付いて仕方無かった。


今思えば然もありなんと思えるのだが、何も教える事無くただ従えと言うばかりだった俺は、どんなにかこの方に不安を与えていただろうと思い至り、今更ながら後悔の念を抱く。


当時のイムジャの口数の多さが、不安から目を背ける為だったとしたならば、どれ程の恐れを胸中に抱かせてしまったのかと胸が痛んだ。


故に今回は、確と話をしておくべきだと思った。



己の言葉がどう届くかは予測出来ない。


しかし医仙の位を賜る程の医術を手にする為に、この方がこれまでの人生で支払った代償が、生半可なもので無い事くらいは分かる。


そんな方をこの狭い迂達赤兵舎内に閉じ込める事は、風切羽を切り取られた小鳥よろしく、籠の中で飼い殺しにするようなものだ。



『今は見る影もないけれど、私だって医者でいる時の自分だけは認めていたのよ』


そう仰った時のこの方の顔を忘れてはならぬ。


故に俺は今回、イムジャを一時的に己の下から遠ざける覚悟を決めたのだ。


例え苦しくてもこの身が焦がれても、この方が一番自分らしく誇れる姿で居てもらいたい。



「ユ・ウンスという、一人の人間の尊厳を取り戻して頂きたく」


俺の言わんとする意味を理解したらしいイムジャは、何を思っているのかまるで一枚の絵のように微動だにしなくなった。


しばらくして、何度か出掛かった言葉を飲み込む素振りをした後に、ようやく口を開いた。


「そうするべきだと頭では分かる。でも


逡巡する様子を見せるこの方の中で、既に結論は出ているに違いない。


恐らく未知の世界に対する不安を振り払い、飛び出す為の風を待っているのだろう。


其れならば



「貴女を想う一人の男では無く、二等兵ユ・ウンスの上役、迂達赤大護軍として言います」


頷いて見せたこの方に対し、俺は意識して強い口調を用い発破を掛ける。


「イムジャらしくもない。やると決めたらやれ、迷うな。それが貴女だろう?」



俺の言葉に呆然としていたこの方は急にからからと笑い出し、今度は無邪気な幼な子の如き面持ちで、その鳶色の瞳を輝かせた。


「それで?鞭だけで飴はないの?」


俺は敢えて無表情を装い、血管が青く透けて見える、白妙の雪のような手の甲に口づけた。



「んもう。『上司として』なんでしょう?それは立派なセクハラよ、チェ・ヨン大護軍」


イムジャは何事か訳の分からぬ言葉を交えて呟いていたが、俺の思いは確と伝わったようで、伏していた目を上げ俺を真正面から見据える。


何時もの通り、仄暗い光はそのままに挑むような眼差しを向けられ、俺は息を呑んだ。





回顧から素早く思考を戻し、俺は返事を待った。


人払いされた書斎にあって、トントンと王様の人差し指の先が卓を打つ静かな音が、まるで己の鼓動の如く聞こえ来る。



何かを考え込んでいた王様が、はたと顔を上げて俺に向き直った。


「医仙に手術道具を渡したと、チェ尚宮から報告を受けておる。天界から持参した物では無く、徳興君が隠し持っていた物だが」


「四年前に徳成府院君が、医仙との取引に持ち出した物だと記憶しております」


「そうであったか。奪われた元々の道具の行方を調べさせた所、断事官(タンサグァン)ソン・ユの手の者によって、長沙(チャンサ)の鍛冶屋に持ち込まれた事が分かっておる」


「であればもう、戻っては来ぬでしょう。して医仙の手に渡った手術道具は、使い物になる様な代物なのでしょうか」


「医仙は問題無いと申しておったようだが。今回の其方の申し出にも関係する事か?」


「はい。医仙の位を賜る程のお方を燻ったままにしておいては、国の損失にもなりましょう」


王様は可笑しくて堪らないと言った目で此方を見ている。


「其方が余にそのような物言いをするからには、医仙の意向は固まっていると見て良いのだな」


問題無いかと」


一瞬空いた間をどう捉えられたか、王様はますますその笑みを深め「あい分かった」と頷いた。





康安殿を出た瞬間、珍しく足音を立てて駆け寄る人影が一つ。


俺の頭を殴りつけ突き飛ばしてから、チェ尚宮は脅す様な声音で一言吐き捨てた。


「次は容赦せんぞ!」


「容赦してから言ってくれよ、叔母さん」



恐らく典医寺での、リュ・シフ侍医を相手にした大立ち回りの件が、耳に入ったに違いない。


(成る程。テマンが朝から俺を探していたと言うのは、叔母さんの差し金だったか


裾を払い、頭をさすりながら立ち上がった俺に対し、チェ尚宮は早速本題に入る。


「それで噂の方の目星は付いたのかい」


「いや、出所はまだだ。しかし相手の意図する方向に少し事態を動かした。これで動きが大胆になってくれれば、尻尾を掴めるに違いない」


「リュ・シフ侍医を洗い直してみたが、特段不審な点は無かった。医仙を任せても大丈夫だろう」


「手間を掛けさせて悪かったな、叔母さん」



「お前は医仙の事になるとどうしようもない」


チェ尚宮が呆れたように俺を見て溜息をついた。


「あの方の御両親や友、仕事に住処、安全で便利な暮らしに心を寄せる男もいたかもしれんな。それら全てを嵐のように奪い去って、その代わりに俺は生きる理由を得た。何と言う事はない、俺があの方の全てを奪ったも同然なんだ」


己の中で消化出来ずに持ち続けている、あの方への罪悪感を口に乗せると、チェ尚宮が絶句する。


「ヨンア、お前


「それでも、攫って来た責任からじゃない。俺が心から、あの方にして差し上げたいんだ。だから医仙の事に関してだけは、目を瞑ってくれ」



『あの方の隠微な気持ちを推し量ったとて、それが一体何になる』


『お返しすると名を掛け約束した以上、自分には彼女との明日を所望する事すら許されない』


当時はそう思い、イムジャの手を離そうと躍起になっていた。


あの時に比べたら、身内に心情を吐露する位で済んでいる今は、余程幸せに違いない。