初冬の早朝らしいピンと張り詰めたような空気の中、寝台から起き出した私は大きく伸びをした。


「ん、ん、んーっ。はぁ


眠りから完全に覚醒した後でさえ、思わず布団に逆戻りしたくなる程の冷気が肌を刺す。


寒がりの私にとって、肩こりや頭痛が酷くなる事の多い冬は、最も苦手で憂鬱な季節だ。



それでも昨晩の出来事を思い出せば、らしくも無く気持ちが高揚してくる。


やっと口に出せた言葉は稚拙なものだったけれど、あの人はちゃんと受け取ってくれた。



この歳になるまで、私の中にあんな自分がいたなんて知らなかった。


いくらテンションが高くなっていたからって、あんな露骨な言葉をあの人に囁くなんて


今更ながら、顔から火が出そうになる。


驚いたかな、引かれたかな。


もしかして嫌われたりとかはまさかね。



それよりも意外だったのは、あの人の方で。


あんな堅物そうな人なのに、女性に触れ慣れているような感じだった。


(そりゃあね、あれだけの男を放って置いたなら、高麗女子は何やってんだって話よね


ソアさんが「一度だけお情けを」と言って、縋り付いていた光景がまざまざと思い出され、妙に納得した私は一人で頷いた。




あの人が今までどんな人生を歩んで来たか、私は何も知らない。


そしてその逆も。


身の上話をするような気持ち的余裕も無かったのが正直な所だったけれど、これからは少しづつ知って行ければ嬉しい。


(今度お酒にでも誘ってみようかしら



そんな事をつらつらと考えながら身支度を済ませて階下に降りると、トクマンさんが私を待っていたような態で駆け寄って来る。


「医仙様、おはようございます!」


「おはようございます。今日の付き添いはテマンさんじゃ無いんですね」


「はい!あいつはテホグンを探しに行っています。どうも姿が見当たらないらしくて


「ふーん、そうなのね。さあ、トクマンさんも朝御飯まだなんでしょう?食堂に行きましょう!」



忙しいあの人が不在な事は割と良くあって、私も特に気にはしなかったけれど、欲を言えば今朝だけは顔が見たかったとも思う。


自分の想いを口にした途端にこれだ。


「やっぱり私ってば、面倒な女だわ」


「へ?何か言いましたか医仙様」


「ううん、何でも無いのよ。早く行きましょ」





兵営東端にある兵舎の一階に設られた食堂は、今朝も多くの迂達赤隊員達でごった返している。


いつも多くの話し声と食器類の音で煩いくらいなのに、トクマンさんに続いて私が姿を見せた途端、たちまち波が引いたように静かになった。


「えっとおはようございます」


私の挨拶に目礼は返って来るけれど、皆遠巻きにしたまま慌てて朝食を食べ終えると、そそくさとその場を後にする。



結局全員出て行ってしまい、私はその様子を呆然と見ている事しか出来なかった。


怒ったり無視されたりという感じでは無い。


とにかく気不味い雰囲気を感じたのは、一体何が原因なんだろう。



「ねえ、トクマンさん。私何かしたのかしら」


そう尋ねれば、目の前の迂達赤副隊長は、育ちの良さそうな顔を困ったように歪めて、ポリポリと頭を掻いた。


「ええとそれがですね」






信じられない。


そんな訳ないじゃない。


ふざけないでよ。


そんな言葉ばかりがグルグルと頭を回る。



部屋の前の廊下を行ったり来たりしながら、私は苛立ち紛れに足音高く床を踏み付けた。


この怒りを一体どこにぶつけていいかすら分からない。



トクマンさんは言った。


『医仙がチェ・ヨンを捨ててリュ・シフ侍医に乗り換えた。それに激怒したチェ・ヨンが、医仙を典医寺まで奪い返しに行き、リュ・シフ侍医を打ちのめすも、妹のリュ・ソアが懸命に執り成しその場を収めた。その心根に感銘を受けたチェ・ヨンは医仙よりもリュ・ソアを選び、二人手を取り合って典医寺を後にした』


噂が噂を呼び、迂達赤隊員にまで話が大きく広がっていたとは思わなかったと。



「やっぱりジェットコースターだわ


「何を一人でぶつぶつ言っているのですか」


「わぁっ!びっくりした」


急に気配も無く背後から声を掛けられ、その待ち望んだ声に嬉しさよりも驚きが勝ってしまう。



しかしよく見れば、チェ・ヨンは髪からぽたぽたと水を滴らせ、それによって肩周りもじっとりと湿ってしまっている。


「ちょっとチェ・ヨンさん!何でそんなびしょ濡れの格好でウロウロしているのよ!冬なんだから、風邪引いちゃうじゃない」


胸元から手拭いを出し、目の前の黒髪から落ちる水滴を拭き取ろうとすると、その手をやんわりと退けられる。


この人は小さく首を横に振りながら「平気です」と言うけれど、その手は氷のように冷たい。


「冷たっ。修行僧じゃあるまいし、水行でもして来たの?」


少し揶揄う筈の言葉に、この人は呆れたような目を私に向ける。


「そう言う貴女は大層良くお眠りになられたようで。肌艶も宜しく、羨ましい限りです」


「今、私は嫌味を言われているのよね?」



目覚めた時の浮き立つような気分は跡形も無く、限界を超えた苛立ちは、悔しさを伴って涙腺を刺激する。


(嫌だ。泣きたくない。狡くて惨めな女にだけはなりたく無いのに


グッと唇を噛み締めて、心の昂りに抗う。



チェ・ヨンはそんな私に気が付いたのか、ばつが悪そうな表情で優しく私の両手を握った。


「八つ当たりをしてしまいました。振り回されているのは俺だけなのかとだから泣かないで」


「泣いてない」



即座に言い返した言葉に、この人がいつものようにフッと片頬を上げて笑う。


「トクマンの奴が、貴女に申し訳ない事をしたと言っていました。朝飯を食い逸れたそうですね。俺の部屋に持って来させますから、一緒にどうですか」


「いらない」


「相談があります。ついでに朝飯を食えば良い」


「食べたくない」


意地を張ってそう言ったけれど、本心からの返事は思わぬ所から返される。



『ぐぅぅ〜』



絶妙のタイミングでお腹が鳴り、恥ずかしさに顔が赤くなるのが自分でも分かった。


「貴女はなんと間の良い身体をお持ちなのか」


気の抜けたような声音に対して、その瞳は存外優しさに溢れている。


もう意地を張るのがバカらしくなってきて、自然と私の口角も上がってしまう。


「決まりですね。さあ中へ入って下さい」