「今は見る影もないけれど、私だって医者でいる時の自分だけは認めていたのよ」
自分の情けない現状を口にした途端、それはとんでもない重さで私の心に伸し掛かってきた。
西洋医学が専門の私は、機器も薬剤も必要な物が何も無いこの高麗時代で、医師として出来る事が全くと言って良いほど無いに等しい。
それは即ち、戦う事も出来ない、生活能力もない…もっと言えば、字も読めなければ、身寄りすらも無い、唯の役立たずという事だ。
過去の行いのお陰でもたらされる人々の善意に甘えて暮らす日々は、私をそんな自虐的な気持ちにさせ続けた。
誰も悪くないからこそ、誰にも苦情を言う事すら出来ない。
そしてこの心の重圧は、他人に預けて軽く出来るような類のものではなかった。
だから口に出したくなかったし、知られたくなかった…特にこの人にだけは。
『攫って来た本人だから言えば気に病むだろう』とか、そんな理由からだけじゃない。
好きな人だからこそ、こんな情けない私を知られて嫌われるのが怖かったのだ。
(そうよ、好きな人なのよ。それをこの人は…)
「チャン先生みたいな医師になりたかったって嫉妬したのよ。分かった?」
考えれば考える程、この人に言われた言葉に苛立ちが募ってやりきれなくなる。
「何を怒っているのです」
「何をって言うか…よく考えたら、さっき貴方ってばとっても失礼な事を私に言ったのよね」
この人の予想外の怒りようと、その後の傷ついた顔に気を削がれていたけれど、そもそも怒りたいのは私の方だ。
「嫉妬もされない存在ってどういう事?私が貴方の事を何とも思っていないって言いたいの?私の事、誰の膝の上にでもこんな体勢でおさまる女だって思ってるの?大人しくキ…口付けまでさせる女だって?馬鹿にしないで!」
心の奥底に押し込めていた自虐に火が付いた直後だったせいか、それが怒りとして口から噴き出すのを止められない。
「イムジャ、それは…」
何かを言い掛けたチェ・ヨンが、急に私の腰を抱えて立ち上がり、東屋の内壁に貼り付くようにして押さえ付けた。
大きな手で口を塞がれて声も出せず、鍛え上げられた厚みのある身体で壁に押し付けられ、身動きひとつ取れない。
いつもよりずっと距離が近いこの人から、杉のような甘さを少し含んだ、涼やかな香りがする。
しばらくすると中庭の奥の方から、複数の足音が聞こえ始めた。
巡回の兵士達らしく、松明の明かりがゆらゆらと揺れながら近づいて来る。
「お静かに。見つかれば面倒な事になります」
私の耳にこの人の唇が触れそうな程の至近距離で、囁くように注意を促される。
分かったと言うように、私も口を塞がれたままコクコクと頷いて見せた。
徐々に足音が大きくなり、その距離が近い事が分かる。
自分の心臓の音がバクバクと一際大きく聞こえる気がして、じわりと嫌な汗が出てくる。
そして永遠のように感じる時間は過ぎ、来た時と同じように足音は呆気なく去って行った。
「…ふぅ。貴方って本当に耳が良いのね」
ようやく口から手が外され、私は大きく深呼吸をしてチェ・ヨンを見上げる。
すっかり牙を抜かれてしまった。
良い事か悪い事か分からないけれど、昔から怒りが長く続かない質なのだ。
見上げた先のこの人は体勢をそのままに、何だかとても難しい顔をしている。
「怖い顔してどうしたの。何を考えているの?」
「あぁ…。いえ、先程の貴女の言葉の真意を聞き直すべきか否か、考えていました」
「言葉?っていうか…そんな話、ここでするの?とりあえず兵舎に戻りましょうよ」
チェ・ヨンは緩く首を振ると、肺の空気を全て押し出すかのように大きく息を吐いて頭を下げた。
両手は肘から壁につけ、体全体で私を東屋の内壁に押し付けたまま微動だにしない。
「戻るなら、話の続きはしません」
「何故?どうしてよ」
訳を訊きながら、私は右手でこの人の背中を緩く撫でてみる。
「貴女の本心を尋ねた結果、己が望むような答えだったとしたら、俺は…」
一拍置いて、チェ・ヨンは更に低い声で呟いた。
「貴女を抱きます」
私はギョッとして、この人がそんなセリフをどんな顔で口にしたのか確認しようとするけれど、屈強な体はびくともしない。
「しかし此処でなら、何を聞いても己を抑えられるのではと…恐らく…」
珍しく歯切れの悪い言い方で語尾を濁したこの人に、逆に先程の言葉が生々しさを増して、私の心へと熱を持って広がって行く。
じわじわとそれが私の頬だけでなく体全体に行き渡って、自分が年甲斐も無く恥じらいを感じているのだと、嫌でも自覚させられる。
今さら処女でもあるまいし、ましてや一晩遊ぶ為の相手なら、もっと際どい言葉を囁かれる事だってある。
なのに相手がチェ・ヨンだと思うだけで、どうしようもない程に紅潮してしまう。
「そ、そうよね。男性が体の構造的に、そういう欲を発散するべきなのは充分理解しているわよ、もちろん。それなのに私ったら、急に言われて驚いちゃって…あはは…」
手に負えない感情を、お茶を濁す事で誤魔化すという、またもや悪い癖が出てしまう。
ムードもへったくれもない言葉によって、次に自分が言うべき言葉へのハードルを、自らが上げて行くのだから始末に負えない。
でもここで黙ってしまうのは、流石に卑怯だとの自覚があるので、覚悟を決める。
こんな私にずっと、チェ・ヨンは言葉と態度で伝え続けてくれた。
だから私も逃げずに言葉にするべきだ。
少し遅くなってしまったけれど、この人は受け取ってくれるだろうか…この言葉を。
「私…貴方のことが好きよ」