「放してってば!チェ・ヨン、今すぐ降ろしなさいよ!」
私は精一杯足をばたつかせ、力の限りにこの人の固く引き締まった背中を殴り続ける。
それでも放してもらえるどころか、ますます乱暴に抱え直され歩幅は広くなる一方だ。
そのうち言われた通り本当に舌を噛んでしまい、そのあまりの痛みに私は慌てて口を噤み、手は痺れて感覚が無くなったので殴るのをやめた。
更には足を振り回したせいで、鳩尾にチェ・ヨンの肩が食い込んで胃が迫り上がりそうになり、少しでも上腹部に伝わる振動を抑えようと、力の入らない手で懸命に抱きつくような格好になった。
怒りのせいか、逞しい体が燃えるように熱い。
初めて会った時以来、この人からこんな風に乱暴に扱われた事は無かった。
(何故私がこんな仕打ちを受けなきゃならないの。怒りたいのはこっちの方よ…)
王宮の中庭にある立派な東屋に着く頃には、私は既に抵抗らしい抵抗も出来ない程ぐったりしてしまっていた。
月は厚い雲の下へと隠れてしまっているようで、少し離れた場所に焼べられている篝火が無ければ、夜目の利かない私ではここがどこかすら把握できない程の暗闇に包まれている。
私を抱えてここまで歩いて来たチェ・ヨンは息一つ乱しておらず、暴れて体力を使い果たしてしまった私の上がった息の音だけが煩く響く。
東屋の中に設られている長椅子の前まで辿り着くと、ようやくその肩から降ろされた。
爪先がつくや否や、苛立ち紛れに足を振り上げチェ・ヨンの脛を容赦なく狙ったけれど、この人は難なくそれを避けてしまう。
空振った私の足がチェ・ヨンの手に掬われ体勢を崩されると、その勢いのまま東屋の長椅子に押し倒され、上から厚みのある体が伸し掛かる。
少し遅れて足元から、放られたと思われる鬼剣ががしゃりと大きな音を立てて転がった。
相当な勢いがあった筈なのに私の体は全く痛みを感じず、頭の下にはこの人の左手が、腰の下には右手が差し込まれている。
(どんな状態でも、この人は絶対に私を守ってくれるのね…)
この場に相応しくない不思議な感動のようなものを覚えて、私はチェ・ヨンの顔を窺うけれど、暗闇の中で覆い被さられているせいで表情は全く分からない。
時折吹く風に戦いだ葉の擦れるさわさわという軽い音と、忘れた頃に耳に響く篝火に焼べられた薪の爆ぜるぱちんという乾いた音。
相変わらず苛立った雰囲気を漂わせたまま何も喋らないこの人と、酷い扱いをされているにも関わらず、らしくも無く大人しく口を閉ざした私。
沈黙は苦手な筈なのに、心は驚く程に和いでいて、私は先程の光景をぼんやりと思い出していた。
『傷付かないようにちゃんと壁を張り巡らせなきゃダメだったのに、いつのまにか絆されて心を許すからこんな目に遭うのよ、おバカなウンスヤ』
修羅場を目の前にした私は、学部生の時の自分を思い返して、苦々しい気持ちになっていた。
他の女性と一人の男を奪い合う行為が、一番私のプライドを傷付ける。
あんな虚しさは、一度味わえば充分だ。
チェ・ヨンとは一度距離を取ろう、今ならまだ引き返せる…この人の足にソアさんが縋り付いている光景を見てそう思った。
その瞬間、あの優しい眼差しと手の温もりが甦って、それらを手放す事を想像しただけで胸がキリキリと痛んで耐えられなかった。
だから頑なに自分の殻に閉じ籠ってしまい、今度は目を合わせるのが怖くなってしまったのだ。
何も見ず問い掛けなければ、自分の期待通りに都合よく思い込んで、今までのようにこの人の側にいられるんじゃないかって。
そうやって自分を守る為の、真綿で包むような打算が働き、結局いつだって本当に私を傷付けるのは、弱虫な自分自身に対する嫌悪感だ。
「貴女に背を向けられる事が、俺には一番堪えるのです」
ぽつりと低い声で漏らしたチェ・ヨンは、ようやく頭が冷えたようだった。
胸の内で色々と思いを巡らせていた私は、その声にふと見えない筈の目線を合わせようとする。
同時に分厚い雲で翳っていた月が顔を出し、辺り一面を夜とは思えない程の真っ白な光で照らし出した。
そこには、すごく傷付いた目をしたチェ・ヨンがいて、私は申し訳なさで胸が詰まった。
「ごめんなさい。私の頑なな態度が、貴方を苦しめたのね」
チェ・ヨンはそんな私に無言で首を振ると、頭と腰の下に潜り込ませたしなやかな腕をそのままに、息が止まりそうな程力強く抱きしめてくる。
掻き抱かれているのに、まるで縋り付かれているような気にさえなってくる、そんな抱擁だった。
私は夕方この人の部屋で、頭を撫でてあげたかった気持ちを思い出し、ようやく右腕を上げて手のひらをチェ・ヨンの後ろ頭に添わせた。
少し癖っ毛の黒髪は硬そうに見えて意外と柔らかな手触りで、撫でている私の方が癒される。
しばらくそうしていると、チェ・ヨンがゆっくりと身を起こして、私の手を引いた。
体を入れ替えるようにして、この人が長椅子に腰をかけ、私をその膝の上に横向きに座らせる。
「夜は冷えます。本当はすぐにでも部屋にお送りすべき所ですが…まだ離れ難い」
そう言って、私の大好きで堪らない困ったような笑顔を見せるから、ますます目が離せなくなってしまう。
「何故あんなに怒ったの?」
くすぐったい気持ちを誤魔化したくて唯の戯れのように尋ねると、途端に苦虫を噛み潰したかのような表情へと変わったこの人が、低く唸るような声を絞り出す。
「リュ・ソアが俺に縋り付く姿を見て貴女が余りにも平然としていたので、自分は嫉妬さえされない存在なのかと腹が立ちました」
私に一番相応しくない言葉を掛けられ、思わず本音が口を突いて出てしまう。
「嫉妬なんて…あんなものは、自分自身を認めている人がするものよ…」