「ヨンア、少しいいかい」


七日ぶりに王宮に帰還した俺が、宣仁殿の回廊を通り抜けようとしていた時だった。


両手を後ろ手に組んだ年嵩の女官が、死角からのそりと姿を現した。


「叔母さん、話があるなら後にしてくれ。今から王様にご報告に上がらねばならん」


帰り着いたばかりで未だ身支度も整えておらず、道草を食っていては今日中に報告は終わるまい。



するとチェ尚宮は、まるで哀れなものを見るかのような目付きを俺に寄越して、態とらしく大きな溜息をついてみせる。


「何だ」


甥相手とはいえ余りな態度に、流石に黙殺は出来ず足を止めた。


「お前、医仙とはどうなってる」


「それは今、王様への拝謁を差し置いて話すべき事なのか?」


「知らねばどこへ転がるか分からぬ愚か者の為に、こうしてわざわざ出向いたというのに。ここまで言ってもまだ耳を貸さぬ阿呆なら、医仙はあの侍医にくれてやった方がましかもしれんな」


「待ってくれ。叔母さん、どういう事だ」


「お前が南方の偵察に行っている間に、王宮内はおかしな噂で持ち切りになっている。医仙はお前を捨てて、リュ・シフ侍医に乗り換えたそうだ」


「何だそれは」


「お前がもたもたしているから、こんな面倒な事になったんだろう。雀共が煩くて敵わん」


相変わらずの仏頂面だったが、心配してくれているのは分かった。


「恩に着る、叔母さん」


更に急ぐべき理由が出来た俺は、半分駆け出しながら礼を伝えた。





「どうした、大護軍。気もそぞろではないか」


未の刻の終わりから半刻ほどを掛けて報告を済ませると、王様からついでにと年明けの行幸について意見を求められ、俺は瞬間言葉に詰まった。


急く気持ちを態度に出さないよう気をつけてはいても、王様のこういう時の観察眼は侮れない。


「少々疲れが見えるな。この件は急ぎでは無い故、また次の機会に話し合おう。今日はもう下がって休むと良い」


そう言って王様が席を立つ瞬間に口の端を緩めたのを見て、俺は例の噂が思ったよりも広まっているのを知った。


「お耳汚し誠に恐れ入ります」


「音に聞いておるか知りたくてな。引き止めて悪かった、もう行きなさい」


俺は常より更に低く礼をして、御前を退いた。




康安殿を出てすぐ、目当ての姿が俺に走り寄る。


「テマナ、一体どうなってる」


「す、すみません。医仙様が典医寺に用があるとかで、テ、テ、テホグンが居ない間兵舎ではなく、あ、あちらで過ごされていました」


テマンは途方にくれたような表情で、言葉に詰まりながらも懸命に説明する。


「七日間ずっとか?」


「イェ」


俺が典医寺に二日通っただけであれほど酷かったたのだから、今回の噂の広がりようは想像しただけで目眩がしそうだ。



しかし医仙の位を戴くあの方が典医寺に足繁く通ったからとて、どうも話の流れが安易過ぎやしないだろうか。


何かしらの思惑が働いているような気がするが、動くには判断材料が無さすぎるので、仕方なく今は胸の内に留めておく事にする。




ようやく迂達赤兵営に帰り着いた時には、既に日没を迎えようとしていた。


イムジャは、俺が王様に拝謁している間に典医寺を出て、既にこちらにお帰りになっているとテマンから報告を受けている。


しかし日が短くなったこの季節、既に明かりが灯されていてもおかしくない刻限なのに、あの方の部屋の格子窓の向こうは真っ暗なままだ。



手燭を持ち急いで兵舎の二階へと駆け上がると、やっとあの方の気配を感じ取る事ができた。


それも何故か、俺の部屋から。


何故そこにいるのかを図りかねたが、特に都合が悪い訳もなく、むしろ訪う手間が省けたと言うべきか。


気付かれぬよう薄暗い室内を覗けば、イムジャはこちらに背を向け寝台の枕元に立っている。


その手を動かす度に、蘇芳色の髪が波のようにゆらゆらと揺れるのが見える。


(今度は一体何を思い付かれたのやら


扉は半分ほど開かれたままだったので、静かに滑り込み声を掛けた。


「ここで何をしているんですか」


「わ!驚いた。もうっ!貴方といいリュ・シフ侍医といい、足音も立てずに側に立たないでよ」


イムジャは苦情を言いながらも、薄暗い部屋の中でも分かる程に破顔して見せた。



だが俺は敢えてその表情から目を背け、持っていた手燭から行灯へと火を移して行く。


愛しい女との七日振りの逢瀬だというのに、その最初の言葉に件の男の名を口にされ、面白く思う男がいたら教えて欲しいものだ。


そんな心持ちが顔に出ていたのか、俺に向けてこの方が申し訳なさそうな顔をする。


「あのごめんなさい。私何か不用意な事しちゃったみたいで、変な噂が流れてるのよ。あっ!でも本当に何もないから。大丈夫だから、ねっ」



この度の根も葉もない噂の所為で、ご自分の女人としての体面がどれ程損なわれたか、この方は全く頓着しておられぬらしい。


「何が大丈夫だと言うんですか」


俺はそう言いながら手燭の火を消して台の上に置くと、イムジャとの距離をゆっくりと詰めた。


俺が一歩進めば一歩下がる、そうやってこの方がジリジリと後退する。


そして寝台に足がぶつかり、それ以上下がれなくなった事で、俺との距離が一気に縮まった。


(既視感のある光景だな


「何がって。貴方が私の事、す大切に思ってくれているのに、他の人と噂になっちゃって面白くないだろうなって。でも本当に何もないから、嫉妬しなくても大丈夫よって言いたくて


息が掛かりそうな程近くにある、この方の薄い鳶色の瞳が、行灯の明かりを受けて潤んだように艶めいている。



「嫉妬?俺がですか」


思ってもみなかった事を言われて戸惑ったのは一瞬で、その後無意識に喉が震えた事で、自分が笑っているのを初めて意識する。


以前に俺が伝えた想いを、この方はきちんと理解し受け止めて下さっているらしい。


そして相変わらず、ご自分の体面より俺の気持ちを真っ先に考えて下さるのがイムジャらしい。



「な、何よ。何がそんなに可笑しいのよ」


匂い立つ花のような唇を小さく尖らせながら文句を言う様は、まるで色に狂った男に摘み取ってくださいと言っているようなものだろうが。


この方を前にすると、相反した感情が己の内に生まれ、それを持て余してしまう。


雛鳥を囲うように大切にして優しくしてやりたいと思う一方で、滅茶苦茶にして泣かせてやりたいという加虐的な衝動。


いつかこの方を壊してしまう前に、この見苦しい感情だけはどうにかして抑え込まなければ。