「ふーん、これがあの成均館なのね」
私はぐるりと周囲を見回しながら「ドラマで見たのよ」なんて独り言を言ってみる。
本当は大した感慨もなく、だけど何か違うことでも考えていないと、ヒステリックに頭を掻きむしって大声で叫び出してしまいそうだった。
あのサイコに無理やり拉致されて光の門をくぐったと思ったら、問答無用で王妃様だという人の手術をさせられた。
ちょっとした手違いでサイコのこと刺しちゃって…またそれも手術して。
王妃様と同じ馬車に乗って、首都に向けて移動してたはずなのよ。
それなのに…気がついたらおかしな服を着て、ヒョンウっていう子と狭い馬車にたくさんの荷物と一緒に押し込められてて。
その子も私の顔を見ては、泣き出す寸前の苦しそうな顔をするから…なんだか私が虐めているみたいに思えて、どうにも居心地が悪く落ち着かなくなった。
やっと王宮に着いたと思ったら、今度は皆して私の顔を見るなり「覚えていないのですか」「忘れてしまったのですか」そればかりで。
そこかしこから注がれる妙に気の毒そうな視線が、私の張り詰めた神経を逆撫でした。
それに…あの人。
サイコはあれから全然姿を見せないし。
顔を出すように伝言を頼んでも、天候が悪いとか王様の御前ですとか、会いたくないことを誤魔化す気もないような言い訳で断られた。
チュンソクさんって人が色々気に掛けてくれてるけど、私はこれからどうなっちゃうんだろう。
考えれば考えるほど、自分の足元にぽっかりと大きな穴でも空いたかのように、身の置き所が無くなった。
疲れか寝不足からか、いくら寝ても寝足りなくてほぼ一日中惰眠を貪ったので、昨日はまだマシだった。
昼から降り始めた雨が夜には嵐になり、風が激しく吹く音や雨が屋根を打ち付ける音が、細切れの睡眠の合間合間に聞こえていた。
そして昨日の嵐が嘘のように今日はとても穏やかな良い天気で、日の暮れたこの時間になると人の気配も無くなって、今では耳鳴りがしそうな程の静寂に包まれている。
そうなるともう、嫌でも今居る場所が自分のテリトリーから大きく外れた場所だと自覚せずにはいられなくて。
贅を尽くして建てられたと思われる豪奢な部屋の隅っこで、私はしゃがみ込んで壁に寄りかかった。
広い部屋に美しい刺繍の施された絹の服、綺麗に整えられた寝床と健康的な食事。
生きるのに不足は無いように体裁は整えられていても、心を慰めるものが何一つとして無い事が、人をこんなにも追い詰めるなんて知らなかった。
「お母さん…私何だか少しだけ寂しいみたい」
口に出すべきじゃなかった。
そう思った時には全てが遅すぎて。
喉の奥から止めどなく熱いものが込み上げて来て、それが嗚咽だと気がついた時には、顎先から生温い液体がぽたぽたとこぼれ落ちていた。
「う…うぅ…」
食いしばった歯の間から声が漏れて、それが少しだけ自分の頭の芯を冷やした。
微かな衣擦れの音が耳に届いて顔を上げると、そこには心配そうな表情を隠しもしない男が、私と目線を合わせるように片膝をついている。
「サイコ…」
「遅くなりました」
昨日はこの人に、腹が立って仕方なかった。
言う事を聞かない患者で、私を攫ったくせに側に居てくれない人だって。
でも今日は、心配でたまらなかった。
攫った責任を取ろうとするように私に刺され、それでも痛みをひた隠してお役目の為に動き回る人だったから。
「ちゃんと来てくれたから、許すわ」
私は自分が思っていたよりずっと、この人のことを待ち侘びていたのか、自分でも驚くほど穏やかな声音でそう言った。
サイコはふっと片頬を上げて微笑んで見せると、私の手首を柔らかく掴んで引っ張り上げる。
しゃがみ込んでいた私の足は知らぬ間に痺れてしまっていたようで、立ち上がったものの足に力が入らず大きくバランスを崩してしまった。
「あっ…!」
気がつけば私は鍛え上げられた胸に抱き寄せられ、この人と鼻先が触れ合うほどの距離にいた。
「何です…まさか足が痺れているのですか」
非の打ち所のない整った顔を前に、私はただ声も無くコクコクと頷く事しか出来ない。
途端しなやかな腕が膝裏に回されて、私の身体は軽々と横抱きにされた。
「ヤァ!傷口が開いたらどうするの!下ろしなさいよ、サイコ!」
目の前の男は先程と同じように、片頬を上げて表情を緩めて見せたけれど、その呂色の瞳は深い悲しみに染まっていた。
私の脳裏に、コエックスで初めてこの人と目が合った時の記憶が甦る。
あの時も私は、悲しみに囚われた瞳だと思って、目を逸らすことができなかった。
でも今目の前にあるそれは、その時よりももっと暗く重苦しく、そしてもどかしいような色が見え隠れしている。
「随分と軽くなられましたね…明日にでも、滋養のある食い物をスラッカン(水刺間)に頼んでおきましょう」
「軽くなったって…や、やぁね!女に対してそんな言い方…って。だから早く下ろしてってば!」
私の慌てたような口ぶりに、今度はこの人もちゃんと笑顔を浮かべてくれた。
「貴方この間もそんな顔して笑ってた」
「何の話ですか」
意味が分からないと言いたげな顔をして、サイコが歩きながらも私の顔を覗き込む。
その瞳の美しさに、心臓の音が跳ねた。
「私がこっそり逃げ出して攫われてしまったのを、貴方が助けに来てくれたでしょう?その時もこんな風に抱き上げられて…」
「はい」
「私が暴れたら、貴方ってば私の事落とすフリしたのよ。そして今みたいな顔して笑ってたのを思い出して。あの時何故笑ったの?」
「あー…いえ、大したことではありません」
都合の良いような話で無いと分かっていても、聞かずにはいられないのが私なのよ。
「何、何、何なの?怒らないから言ってごらんなさい」
「全く…しょうのないお人だ」
サイコの口調は呆れたようなものだったけど、その瞳は思いがけず優しかった。
(変なの。私ってばサイコとこんな風に気安く話せる間柄じゃ無かったはずなのに…)
私を寝台の上に下ろしてこの人も横に腰掛けると、やっと理由を教えてくれた。
「あの時の俺は、貴女の考えていらっしゃる事が全く読めず、正直苛立っていました。腕の中で暴れる貴女に手を焼いて、取り落とす振りでもしてみたら大人しくして下さるだろうかと、そんな読みがまんまと当たって…初めて貴女が、俺の思った通りの反応を返して下さった。それが何だか大人げなくも嬉しかったのです」
私は思い切り驚いた顔を見せていたのだろう。
サイコがお決まりの「何です」と問いかけてくるので、私はどこからか湧き出る胸の疼きを誤魔化すように、戯けて見せた。
「貴方って口数が少ない人だと思ってたけれど、本当はそんなにたくさん喋れるんじゃない」