私は走った。


走って、走って、走って。


山道の波打つ悪路に躓きそうになっても、色とりどりの落ち葉に足を取られよろめいても、あの人の元へと向かうこの足を止める事は出来ない。


『いつもの場所です、あの木の所へ』


テマンさんの言った言葉が、酸欠気味でクラクラする頭の中で何度も何度も繰り返される。


冷えた空気が肺を満たし、喉も鼻も痛む。


目の覚めるような秋日和だと言うのに、美しく山々を染める色彩には目もくれず、私はあの人のいるであろう欅の木の袂まで走り続けた。





(いたテジャン!)


耳に届くのは、自分の荒い息遣いと激しく打ち鳴らす心臓の鼓動だけ。


舞い落ちる木の葉を攫いながら吹く風の音も、燃え立つように赤く色付いた木々がそよぐ音も、全て置き去りにして来たかのように、他には何も聞こえない。


無意識のうちに止まってしまった歩を、今度はゆっくりと進める。


足下が悪いせいか、それとも現実味が無いせいか覚束ない足取りは震えるばかりで、思うようにこの身をあの人の元へと運んではくれない。



(仮にこれが夢ならば早く覚めてでないと長く浸った分だけ現実に痛めつけられるから)


何度も何度も夢に見たテジャンは、私の「そこにいるの?」という問いかけに一度も答えてくれたことはなかったけれど、いつも溺れるほど甘やかだった。


でも夢はいつも、私に甘い蜜を吸わせるだけ吸わせ、それを取り上げ続けた。


恋しい男の優しい声も力強い腕も温かい眼差しも惜しみなく私に与え、目覚めと共に容赦なく奪ってきた。


離ればなれになった一年の間に刻み込まれた寂しさや悲しさや苦しさが、今になって一斉に芽吹き、私の心にその枝葉を広げる。


(お願いだからこっちを振り向いて、現実の貴方だって、夢じゃないって、信じさせてよ


確かめたい気持ちとは裏腹に、何故だかこの足はあと数歩を踏み出せないでいた。


だから私は、束の間の幸せに揺蕩っていた遠い日の朝をなぞるように、心の中でカウントする。


ハナ(ひとつ)


トゥル(ふたつ)


セッ(みっつ)



まるで心の声が聞こえたかのように、ゆっくりとあの人がこちらを振り向いた。




涼やかさの際立つ目元に、光さえも吸い込まれそうな深い呂色の瞳。


高めの鼻にはスッキリと鼻筋が通り非の打ち所のないバランスを保っている。


少し厚めの唇は、意志の強さが現れたように形よく引き結ばれ、そこから紡がれる言葉は低音の響きの良い声に乗って、かつて私の心の深い所を揺さぶり続けた。


無造作に扱われ続けた所為か、毛先の色が抜けてしまった黒髪は少しだけ癖っ毛で、それが案外柔らかいのを私は知っている。




あんなにも思い焦がれたあの人が、本当に目の前にいるかもしれない。


そう思うだけで、きゅうっと音がしそうなほど心臓を絞りあげられたようで、上手く息を吸えなくなる。


その上私の唇は情けなく戦慄くばかりで、あの人を呼ぶことすら出来ない。


そのうち目の前の姿がじわりと滲んでいき、もっとずっと見ていたいと思わせるその形貌を私から奪い去っていく。




やめて、もうやめて。


精一杯頑張ったわ。


私もうダメなのこれ以上は耐えられないの。


今ここでこの人を奪われたら、もう正気ではいられない気がする。


この手を取って、かつてそうしていたように「何ですか」って問いかけて欲しい。


お願いよテジャン。