ゴッホアライブ① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

4月18日(火)兵庫県立美術館ギャラリー棟。

 

 

ゴッホアライブを見に行きました。

 

 

まず始めにイントロダクション。はやる気持ちを抑えて、ゴッホの生涯から読んでいきます。

 

 

  フィンセント・ファン・ゴッホ

 

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の小さな町ズンデルトに生まれました。

 

 

プロテスタントの牧師の息子として生まれた彼は、早くから自分が育った中産階級の暮らしと、地方の労働者や農民の貧困に苦しむ暮らしの違いを意識していました。

 

 

1869年に16歳で学校を卒業すると、叔父の一人が共同経営者を務めていた画商、グーピル商会で仕事を始めます。

 

 

フィンセントはそこで展覧会を開いたり、オリジナルや複製の作品を売ったりすることによって、どれほどのお金を稼ぐことができるかを目の当たりにし、美術の世界の商業的な側面に深く関わることになります。

 

 

グービル商会に勤務した6年の間に、フィンセントはオランダ、ロンドン、パリなどで様々な絵画を目にし、絵画への変わることのない情熱を育むことになりました。彼は特にジャン=フランソワ・ミレーや、バルビゾン派の写実的な作品を好みました。

 

 

20代初期のフィンセントは極めて不安定で、自分の進路を決めることに躍起になっていました。1876年にはグービル商会を解雇されましたが、それは報われぬ恋により精神が落ち込み、また少々不安定になったことが原因でした。

 

 

その後の数年間、フィンセントは神学の勉強に励んだがうまくいかず、一時期は福音伝道師として働きました。しかし、またもや彼は解雇されてしまいます。それは自らの仕事に対してあまりにも熱心過ぎたためでした。

 

 

1880年、27歳の時、フィンセントはついに芸術へと向かいます。19世紀の印象主義に触発され、さらにはモネ、ピサロらの芸術家から強い影響を受けて、ゴッホはついに自らの天職を見つけたのです。これ以後、緊迫感があって強烈な絵をたくさん描きました。

 

 

ゴッホは殆ど独学で画家になりましたが、当時の芸術家としては最も多くの作品を制作した一人でした。わずか10年間で930点の油彩と1100点の素描とスケッチ、すなわち2000点を超える作品を生み出しています。

 

 

1890年に他界して以来、ゴッホは西洋美術において最も広く知られ、影響力のある人物の一人になりました。現在、彼の作品はオークションで記録的な高値を付け、世界中の美術館や収集家の垂涎すいぜんの的となっています。

 

 

次にゴッホアライブに登場する作品の解説がありました。この話は次にします。