山本周五郎を書いたついでにと言っちゃなんだが、今回は重松清の小説である。

この作家には、少年、少女たちのナイーブな心情にそった繊細な物語も多いが、サラリーマン家庭や老人の哀歓を描いたものも多い。私よりひと世代下であるが、なぜか世代的な共感や感動を共有できる作家である。

 今回はリタイア後の、毎日が日曜日を過ごす人々が主人公の、いわば私たちの世代がテーマとなった切ない物語である。短編小説集『定年ゴジラ』から、珠玉の作品を取り上げたい。

 

「憂々自適」

 サラリーマン時代は、仕事仕事で子供のことは全部妻に任せっぱなし。子供の起きている時間に帰宅したことはなかった。

今は、孫娘から「おじいちゃんはぶらぶらしているの!」と言われる。友人のなかには大学の社会人講座を受けている者もいる。リタイア後の生活をどうすればいいのか。「ぶらぶら」という言葉が胸に重く沈んでいく。

「余生、オレたちがいま生きているのは、自分の人生の余った時間なんだ。そんなの楽しいわけないよな」と自分に言い聞かせる・・・。

 

「きのうのジョー」

 町内会の班長になった山崎は会長からあることを頼まれる。大きな声でサンドバックを叩き周囲の家から苦情が出ている、何とか処理してくれと。どうやらこの迷惑な行動には、定年退職後奥さんに離婚されてしまったことが背景にあるようだ。定年離婚が散歩仲間の話題になる。娘からの電話をとると、男に捨てられたようだ。相手の男の妻が離婚届に印を押さないという・・・・。

 

 その他、サラリーマン生活も終わった男が、通勤にちょうどいい近郊のニュータウンに住む意味は? ニュータウンはふるさと足りうるのか? を自問自答するという「夢はいまもめぐりて」など、定年後の男たちのちょっとした憂悶をさりげなく巧みな短編小説に織り上げている。

 「憂々自適」については、私の人生をなぞるようなところがあってつい共感してしまう。私も孫娘から一度「じいじはなんで仕事に行かないの?」と訊かれたことがあるので、「毎日が日曜日」の意味を考え、かみしめざるを得ないのである。

「きのうのジョー」は「あしたのジョー」を逆転させたような切ない物語であり、私の情緒をくすぐり、しみじみとしてしまう。

 またこの作家の多くの作品の底流に、遠く離れたふるさとへの消し難い感傷のようなものがあり、そのふるさととの距離感が私の心情と共振するので、理屈もなく好んで読んでしまうのである。