吉本隆明の『源実朝』は、前回まで書いてきた小林秀雄と太宰治の実朝論を相当意識しながら書かれたものである。あるいは二人の実朝論を超克しようとする実朝論である。

 小林や太宰が立ち上げた実朝像は<無垢なる天稟>であったり、<おおらか、きよらか>といった言葉で集約される悲劇の主人公像であった。これらはあくまで小林や太宰の心象を中心とした実朝論である。吉本は、小林、太宰等によって形成されてきたこれら<実朝的なもの>に対置するように、<制度としての実朝>という観点を加える。これによって、より多角的で陰翳を深めた実朝像を展開していると言ってもいいだろう。

 

 では、吉本のいう<制度としての実朝>とは何を言うのか。

 実朝の死は、頼朝によって創始された幕府のあり方そのものの必然的な帰結ではないかというのがその要点である。鎌倉幕府という武士の共同体は血縁を疎外したところで統御されており、親子、兄弟がせめぎ合い殺戮しあうことを許容する。親子兄弟のつながりよりも惣領と庶子のつながりのほうが重かった。実朝の死もこうした鎌倉幕府の性格に内在する事件の一つに過ぎないと吉本と断じるのである。

 軍事権と祭祀権を一身に担う存在であった実朝であるが、鎌倉幕府に内在する究極の論理がそれを必要としなくなった、あるいは無化されたと言い換えてもいいだろう。つまり、歴史として必然の悲劇であったという他はない。

 この吉本の実朝論は、小林や太宰の文学的な詠嘆や情緒に突き動かされた実朝論に、社会性という論理を挿入したものではないかと私には思われる。

 

 ところで吉本は具体的に実朝の和歌について「実朝における古歌」、「古今的なもの」「古今集以後」という章でその解釈と分析をしている。

 

 箱根路をわれ越えゆけば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ

 大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

 

 これらの歌について、吉本は次のようにうけとめている。

「わたしには途方もないニヒリズムの歌とうけとれる。悲しみも哀れも<心>を叙する心もない。ただ眼前の風景を<事実>としてうけとり、そこにそういう光景があり、また由緒があり、感懐があるから、それを<事実>として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。」

 

小林や太宰が見た無垢やおおらかな実朝は、吉本の目には途方もないニヒリズムに佇む実朝として映るようだ。また実朝の歌の特徴をこう書いている。

「景物をうたっても、人事を詠んでも、恋を謳歌してもけっきょくは<事実>の詩になってしまうところには、実朝のどうしょうもできない詩的思想が潜んでいた。それは悲劇であり宿命であった。」

 吉本もまた<悲劇>と,<宿命>という言葉を持ち出さざるを得ないところに、私は小林や太宰と同じ地平に立つ吉本の抒情を微かに感じるのである。