「月に吠える」など特異な詩的空間を切り開き、わが国の口語自由詩に圧倒的な地歩を築いた萩原朔太郎は、西行をどう見ただろうか。
 朔太郎は「愛誦歌私感」と題する歌論を展開しているのだが、その中で西行を取り上げているところがある。
 
  昔「山家集」など読んだけれども、少しも感興がなく、今新しく読んで見ても感興がない。(中略)単に面白くないばかりでなく、一種の忌まわしい反感さへ抱かされる。
 
 と嫌悪感を隠さないのである。ところが、読み進んでいくとこんな論調に変わる。
 
  僕等は心から親愛と畏敬を感ぜずには居られないのである。(中略)真の詩的精神によって詩を作り、且つ生涯も「詩」の情熱に殉じたところの真の「生活の詩人」真の「人間の詩人」であるからだ。
 
 朔太郎の、西行に対する相反する愛憎の心情が極端な形で吐露されていると言ってもいいだろう。一瞬どちらが朔太郎の真意なのか戸惑ってしまう。さらに、
 
   遥かなる岩のはざまに一人居て 人目おもはで物思はばや
 
  という歌についてこう書いている。
 
  西行の恋歌は下手カスの歌ばかり作って居る。決して情熱が足りないわけではないのだけれども、理知的な反省が加ってる為、情熱が強く爆発できない。
  しかし、この一首だけは例外であり、西行の恋歌中での白眉である。これほど率直に飾り気なく素朴に歌ってしかも真情の強く表白されている恋愛詩はない。
 
  ここにも同様のアンビバレンツな感情が現れているのが興味深い。
  ところで、朔太郎は中学生時代、「田舎ハイカラ」とあだ名されたという。このあだ名から、歌人の佐々木幸綱は、朔太郎の中に或る<ちぐはぐさ>があり、この<ちぐはぐさ>こそ詩人萩原朔太郎の本質を言い当てていると書いている。そして朔太郎の詩表現の中にこの<ちぐはぐさ>がどのように表れているか歌人らしい観点から検証している。
 炯眼というべきであろう。なるほどと思う。この朔太郎の西行論のアンビバレンツな感情もまたその<ちぐはぐさ>と無縁ではないだろう。
 <ちぐはぐさ>という観点から照準を合わせると朔太郎の朔太郎らしさが見事に浮き彫りになってくるように思うのである。