身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけり
 
  (出家した人は、形は世を捨てているように見えるが、精神において少しも捨てていないのではないか。むしろ在俗の人のほうが捨てているのだ)
 
  上の歌は「詞花和歌集」によみ人知らずとして入っているが西行の歌である。西行は、まるで出家を他人事のように詠んでいる。
  「家富ミ年若ク、心二愁無シ、遂二以テ遁世、人、之ヲ嘆美ス」(「台記」注1)と書かれたように、西行の出家は世間一般から驚きの目で見られたことは確かであろう。
  だが、その動機が分からないこともさることながら、出家人としての西行にも分かりにくいところがある。たしかに、嵯峨野の草庵に独居したり、高野山、吉野の山中に長く住んだこともある。さらに言えば、当然であるが妻娘ともきっぱりと縁を切っている。そのときには小さな娘を縁から蹴落とした話さえ伝わっている。もはや後戻りが出来ないという決意の表れだったのだろうか。
 
  しかし、きっぱりと俗世間から手を切ったわりには、たとえ歌を通してであったとしても、鳥羽上皇、崇徳上皇など権力の中枢との交流は絶えたことはなかった。
  また、先に鎌倉で頼朝と会った話を書いたが、その目的は平泉の藤原秀衡と頼朝の仲をとりもつような意味もあったという説もある(秀衡は後に頼朝に滅ぼされる)
  作家堀田善衛は、「出家などと言うものではない。”政僧”という言葉を使いたくなる」と書いている。(「定家明月記私抄」)
  また、「西行という歌人は、立派な歴史的眼光をそなえた政治詩人であった」(玉城徹「西行-山家集の世界」)も同様の見解であろう。
 
  どうやら西行の出家は、世俗から断絶して仏道修行に邁進するといったものとは少し違うようである。むしろ歌に沈潜するためのものであったとも言えそうだ。
  だが、当時はある階層以上では出家ということが盛んに行われていたのである。それらも、必ずしも宗教的悟達を求めた出家ではなかった。有名な例を引くと、西行の同時代では平清盛も出家している。
  「かくて清盛公、年五十一にてやまひにをかされ、存命の為に忽に出家入道する。(中略)其しるしにや、宿病たちどころにしていへて」  (「平家物語」巻第一 禿髪)
  これも形式的で宗教臭さというものはまるでない。
  出家とはどういう意味だったのか、どうもよくわからなくなる。現役を退く程度の軽いものではなかったと思いたいのだが。後の鴨長明、吉田兼好などもまた出家隠遁者である。
  日本特有の出家文学ともいうべきものを切り開いた二人といってもいいだろう。あるいは、その先駆者が西行であったという評価もできそうである。
 
  注1 藤原頼長の日記。頼長は保元の乱の首謀者の一人で敗死。 西行の名前が記されたもっとも古い資料と言われる。